両替商(りょうがえしょう)とは、両替および金融を主な業務とする商店あるいは商人のことである。日本における両替商は室町時代を発端として江戸時代に確立し、小判、丁銀および銭貨を手数料を取って交換、売買すなわち両替した商店から始まり、明治時代以降は両替商は銀行として金融業務を行うようになり、この銀行を両替商という場合もある。日本国外においては古くから国境を越えた交易が盛んであり、外貨両替、金融などを扱う両替商が多く存在した。現代では主に、空港などで外貨の両替を行う店舗および窓口を指す。
目次
1 江戸時代の両替商
1.1 江戸時代以前の貨幣
1.2 三貨制度の成立
1.3 両替商の株組織
1.4 両替天秤
2 日本国外における両替商
2.1 ヨーロッパ
2.2 イスラム世界
2.3 中国
3 銀行
4 外貨両替を扱う両替商
5 参考文献
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両替という言葉は、一両小判を、丁銀、豆板銀すなわち秤量銀貨に、また銭貨に換(替)えたことに由来する。また銀座において金地金と公鋳銀(丁銀)を替えること、また灰吹銀および極印銀すなわち市井銀と公鋳銀とを取り替えることを南鐐替(なんりょうがえ)と称したことに由来するとも言われる。このため銀座の所在地はしばしば両替町と呼ばれるようになる。また金座および銀座周辺では両替商が集中し、金銀の売買が行われた。さらに貨幣吹替(改鋳)の際には、金座および銀座に代わり旧貨幣の回収、交換の業務に関わった。
室町時代頃から、次第に市場経済が発展し、宋銭など中国からの渡来銭が流通するようになった。一般の小売は銭遣いが中心であり、銭一枚は一文という単位であった。しかし、数百年の流通により銭の中には割れ、欠け、磨耗などの著しいものや、国内で渡来銭を鋳写しすることにより鋳造された質の悪い銭が流通の大半を占めるようになり、これらは鐚銭と呼ばれるようになった。これに対し明から新たに輸入された永樂通寳は良銭として扱われ、撰銭という慣行が始まった。
西日本を中心に銀山から山出しされた灰吹銀に極印を打ち、その量目(質量)に応じて実質価値が定まる秤量銀貨が大口取引に利用されるようになり、小額取引にはこの極印銀を切遣いした切銀が使用されるようになった。これは明との生糸貿易が主に秤量銀貨で決済されたことも関係している。この灰吹銀をたたき延ばし平たい棒状にして極印を打ったものが古丁銀と呼ばれるものである。
奥州および甲州は金山が多く位置し、砂金が量目に応じて大口取引に利用されるようになり、やがて砂金を吹きまろめて(鎔融して)竹流金とし、またこれを槌でたたき延ばした判金として用いられるようになった。これが大判および小判の始まりである。
さて、日本には中世より、割符と呼ばれる為替の前身にあたる物を扱う「替銭屋」・「割符屋」と呼ばれる商人が存在した。また、土倉と呼ばれる倉庫兼金融業者の活動も活発であった。さらに、戦国時代に入り全国の金山および銀山の産出か増大するにつれ、山師の持ち込む金銀地金の精錬、鑑定および売買を行う金屋および銀屋も現れた。後世の両替商はこうした業者が後述の三貨制度の確立によって両替の分野にも関わるようになったものと考えられている。
関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は全国統一への一歩として貨幣制度の整備に着手し、慶長6年(1601年)に金座および銀座を設立し、慶長小判および慶長丁銀の鋳造を命じた。これが慶長の幣制の始まりである。これに遅れること35年後の徳川家光の時代、寛永13年(1636年)に幕府が一文銅銭、寛永通寳を本格的に鋳造に乗り出すことになった。かくして三貨制度(小判、丁銀、銭貨)が確立することになるが、これは既存の貨幣の流通形態を踏襲するものであった。
これより前の慶長14年(1609年)に幕府は三貨の公定相場として「金一両=銀五十匁=永一貫文=鐚四貫文」と定め、後の元禄13年(1700年)に「金一両=銀六十匁=銭四貫文」と改訂し、貢納金などに対してはこの換算率が用いられたが、一般の商取引では市場経済に委ね、金一両、銀一匁および銭一文は互いに変動相場で取引されるのが実態であった。このように国内に三種類の通貨が同時に流通することとなり、これらの取引を円滑に行うためには、これらの通貨間の両替が必要となる。そこで1?2%程度の手数料を徴収して両替を行う商売が成立することになる。
小判を一分判に、あるいは豆板銀を銭に換えるなど、より使い勝手の良い小額の貨幣に両替する場合は切賃(きりちん)と呼ばれる手数料が発生し、少額貨幣から高額貨幣への両替手数料より割増されるのが普通であった。