世界基督教統一神霊協会(「統一教会」または「統一協会」)に関する年表。
文鮮明の半生に関しては、文鮮明#来歴を参照。
目次
1 教団設立まで
2 教団の草創期
3 韓鶴子との結婚(聖婚式)以降
4 アメリカ進出以降
5 日本で経済活動が中心になって以降
6 ビデオ・センターでの伝道体制以降
7 荒野40年路程終結以降
8 霊感商法自粛宣言以降
9 「還故郷」の摂理以降
10 韓鶴子が表舞台に立って以降
11 天一国年号制定以降
12 関連項目
13 脚注
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教団設立まで
1935年
4月17日(水曜日) 復活祭に当たるとしたこの日[1]に、数え年16歳の文鮮明は「イエス・キリストと霊的に出会い“メシアとして果たせなかった使命を果たしてほしい”と頼まれたという。彼はその責任の重さに何度も断ったが、最終的に受け入れたという[2](アメリカのテレビのインタビューでは「イエスはヘブライ語なまりの韓国語で話した」と答えている)。
1943年
2月10日(陰暦1月6日)日本併合下にあった朝鮮の平安南道 の安州の信里(現在は北朝鮮統治区域)で後に文鮮明の妻となる韓鶴子(ハン・ハクジャ)が誕生。12月 23歳の文鮮明が18歳の崔先吉(チェ・ソンギル、教団では「真の母」[3]としての第一候補だったとされる)と婚約。年齢は10代で、篤実なキリスト教徒であり、洗礼ヨハネの使命を果たす女性という条件で文鮮明は選んだという。お見合いだったとも言われる
1944年
年初 鹿島組(現・鹿島建設)の京城(ソウル)支店に電気技師として就職。5月 崔先吉と「聖婚式」[4]を挙げる。「血分け」を行う混淫派とも言われる李龍道(イ・ヨンド)派の「イエス教会」の幹部である李浩彬(イ・ホビン)の司式により行われたとも言われる。10月 文鮮明は日本留学時の抗日運動の事実が発覚し、京畿道(キョンギドン)警察部によって連行され、拷問を受ける。
1945年
2月 文鮮明が半死状態で釈放される。4月28日 崔先吉との婚姻届を提出。10月 京畿道の坡州のイスラエル修道院 の金百文(キム・ペグムン)[5]のもとで学ぶ。京城の永登浦区域所(現:永登浦区)上道洞の礼拝所で補助引導師を務める。金百文が自分の弟子たちに降りた「文鮮明がソロモン王である」という啓示を信じないで受け入れなかったため、翌1946年の4月に文鮮明はそこを去る[2]。
1946年
6月6日 文鮮明は妻と3ヶ月の息子、文聖進(ムン・ソンジン)を置き去りにして、朝鮮キリスト教布教の中心地であったソ連占領下の平壌へ行く。