不受不施派
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日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)は、日蓮を宗祖とし、日奥を派祖とする、日蓮門下の一派である。
目次

1 宗祖

2 派祖

3 祖山

4 概要

5 沿革

6 その他

7 外部リンク

//


宗祖

日蓮


派祖

日奥


祖山

妙覚寺(岡山県)


概要

桃山時代に関白豊臣秀吉が亡き母大政所の回向のための千僧供養に日蓮宗の僧侶も出仕を命じる事件が起きた(1595年)。このとき日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と、出仕を拒み不受不施義の宗規を守ろうとする不受不施派に分裂した。そして京都妙覚寺日奥がただ一人出仕を拒否して妙覚寺を去った。さらに徳川家康大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論させ(大阪城対論)、権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした(1599年)。日奥は13年後赦免されて妙覚寺に戻った。

江戸時代に入ると身延山久遠寺(受不施派)の日暹は、武蔵国池上本門寺(不受不施派)日樹が身延山久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え(1630年)、幕府の命により両派が対論する事件が起きた(身池対論)。しかしこのとき身延山久遠寺側は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強いコネクションをもっていたことからそれを活用し、結局政治的に支配者側からは都合の悪い不受不施派側は敗訴し、追放の刑に処されることになった。このとき日奥は再び対馬に配流されることになったが、既になくなっており、遺骨が配流されたとされる。

そして幕府は、寺領を将軍の寺に対する供養とし、道を歩いて水を飲むのも国主の供養であるという「土水供養論」を展開し不受不施派に対し寺請(寺請制度参照)も認めない(不受不施派寺請禁止令)など、禁制宗派とした(1665年)。このとき安房小湊誕生寺など一部のグループは寺領を貧者への慈悲と解釈して表向き幕府と妥協する「悲田派」と称する派をたて秘かに不受不施の教義を守っていたが、これも発覚し関係者は流罪に処せられた(1691年)。

不受不施派の信者は日蓮の地元であった上総国下総国安房国室町期に日蓮宗勢力が拡大した備前国備中国岡山藩)に多く潜伏していた。彼らは厳しい摘発を受け、隠れキリシタンのように刑罰を受けるか、改宗の誓約書を取られるかした。不受不施派の信者は、他宗他派に寺請をしてもらうが内心では不受不施派を信仰する「内信」となる者が多く、一部の強信者は他宗他派への寺請を潔しとせず無籍になって不受不施派の「施主(法立)」となった。また不受不施派の僧侶は「法中」と呼ばれ、それを各地の「法燈」が率いた。そして不受不施派では教義上「内信」は不受不施の信者とは一線を画され直接「法中」に供養することが出来ず、「施主」がその間を仲介するという役割を果たした。この信者同士の絆が強固な地下組織を形成し、この時代を生き抜いた。またこの時期岡山の不受不施派では、法立が導師を務めることが出来るか否かをめぐり導師不導師の論争が起こり岡山だけではなく不受不施派全体の問題となった。そして、日向に配流中の日講を中心とする不導師派(講門派)と讃岐に配流中の日堯を中心とする導師派に分かれ、前者が不受不施日蓮講門宗の系統となり後者が日蓮宗不受不施派の系統となった。

明治維新を迎えると、政府は釈日正を中心とした不受不施派から宗派再興、派名公許の懇願受け、信教の自由の名の下明治9年1876年4月10日)、不受不施派の宗派再興、 派名公許を布達した。これにより同年、釈日正は岡山県岡山市に竜華教院を創建し、その後日奥の京都妙覚寺の名をとり日蓮宗不受不施派の本山とした(1882年)。


沿革

1378年(永和4年)に日実は妙覚寺(京都府)を建立する。

1595年(文禄4年)に豊臣秀吉主催の千僧供養会に際し、妙覚寺(京都府)日奥不受不施義を主張して出仕を拒否し、弾圧される。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen