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上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。奏上ともいう。
目次
1 中国
2 日本
2.1 律令制度(奈良時代・平安時代)
2.2 大日本帝国憲法
2.3 日本国憲法
3 脚注
4 関連項目
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中国 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
中華王朝の官僚は、上奏の権限を利用して権力を掌握していた。上奏の内容をめぐってしばしば権力闘争が起こった。
唐の律令制における上奏は、意見封事の上表(政事に関する上奏)と訴訟の上表(訴訟に関する上奏)とに大別される。 訴訟の上表については、公式令訴訟条に拠れば、尚書省の判決に不服である場合、三司(御史台侍御史、門下省給事中、中書舎人の3者)による会審(合同の審査)で認められたものは、三司の陳訴を通じて皇帝に上訴することができたとされる[1]。
日本の律令制における上奏は、訴訟に関する上表について公式令訴訟条に規定されていたものの、太政官が実質的な終審裁判所として機能していたために少なく[2]、対して政事(特に人事考課)に関する上表が多かった。 政事に関する上表は、三省申政(中務省(女官事案)・式部省(文官事案)・兵部省(武官事案)の所管する人事・叙任・賜禄)が中心とされた[3]。 政治の中心が、天皇の祭儀空間としての紫宸殿から、天皇の日常空間としての清涼殿へ移るにつれ、上奏の形式も、律令制以前からの伝統として女官が取次役として介在していた「?司奏(いしそう)」あるいは「内侍伝奏(ないしてんそう)」に代わり、天皇の秘書官たる蔵人が取り次ぐ「清涼殿奏」(特に「蔵人伝奏」)が定着した[4]。
大日本帝国憲法の下では、官庁・帝国議会等が天皇に希望・意見を上奏した。奏聞(そうもん)を参照。
公文式(明治19年勅令第1号)第二条[5]では、法律・勅令の公布について上奏する旨が規定されていたが、閣令については規定されていなかった。法律の制定、勅令の発布という大権事項について、内閣(内閣総理大臣・各省大臣)の介在が制度化された中で、上奏は大権行使の過程の一部として位置付けられていた。
天皇は、法律・政令等を公布し(日本国憲法第7条第1号)、国会召集・衆議院解散の詔書を発する(同2・3号)。 日本国憲法における上奏は、国政に関する権能を有さない天皇が行う国事行為について、内閣の助言・承認を手続化したものと位置付けられる(同3条、同4条)。
法律・政令等に関する上奏の一般的な手順は、以下のとおりである[6]。衆議院解散に関する上奏については、「衆議院解散」を参照。
法律・政令等の公布が閣議決定された後、奏上される文書[7]を「上奏箱」(漆塗りの箱)に収める。
内閣官房内閣総務官室の職員が、宮内庁の侍従職の事務室に上奏箱を運ぶ。
宮殿の「侍従候所(じじゅうこうしょ)」(当直侍従の控室)に上奏箱が運ばれ、上奏文書の内容が確認される。
宮殿の「表御座所(おもてござしょ)」(天皇の執務室)に上奏文書が運ばれ、天皇が署名する(親署)。御璽(法律・政令等の場合)および国璽(勲記等の場合)は、侍従職が押捺する。上奏に対して天皇が承認して決定する行為を「裁可」という。
内閣官房内閣総務官室の職員が再び宮内庁に赴き、公布文書を上奏箱とともに内閣官房に持ち帰る。
現憲法下の公的場面(法令条文その他)では、動詞として用いる場合には「奏上(そうじょう)する」と表記され、「上奏する」との表現は用いられない[8]。「上奏」は上述の「上奏箱」のような名詞的用途に限られる[9]。
この外、国政について天皇が報告を受ける行為として「内奏」がある。