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三河国 (みかわのくに) は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東海道に位置する。現在の愛知県の東部にあたる。三の大字を用いて参河国とも表記する。三州または参州 (さんしゅう) と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、近国。 大宝律令以前は、三川と表記。律令制〜平城京までは参河と表記。長岡京以後は、三河と表記したことが、木簡から判明している。三河国位置図
目次
1 沿革
2 三河の語源と用法
3 国府、守護所、一宮、総社、国分寺
4 守護
4.1 鎌倉幕府
4.2 室町幕府
5 郡
6 国号
7 国境
8 註
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645年の大化の改新後に穂国造と参河国造(三河、三川)の支配領域を合わせて成立したと考えられているが確証はない。参河国が確実に存在したのは律令制の成立以後である。また7世紀後半に石神遺跡から、三川国穂評と記載された木簡が出土することから、穂国造を否定する説もある。ちなみに穂国造は、偽書説のある先代旧事本紀にしか登場しない(他の史料で、東三河を穂国(穂の国)と呼称している事実はない)。
穂国造の本拠は宝飯郡であるが、確定できる主要な古代遺跡がないため中心地は不明である。
西三河に該当する三河国造の本拠は、二子古墳のある鹿乗川流域遺跡群(安城市桜井町地域)と推定されている[1]。石神遺跡から出土した木簡に、桜井君、長浴部直と記載された地方国主を想定するものがある。また、三河国内では、古代の木簡は、安城市の下懸遺跡(小川町)・上橋下遺跡(古井町)からしか出土していない。また、市の付く地名が、その国の中心地と想定され、大市郷[2](安城市上条町)、古市(安城市古井町)と、「市人」と記載された墨書土器出土(ニ子古墳南の桜林遺跡;安城市桜井町桜林)など、安城市の鹿乗川流域にある。
西三河=三河国造、東三河=穂国造と称していることから、通常三河といえば、西三河を指す。三河物語においても、西三河を単に、三河(国)と言い。牛窪・吉田(豊川・豊橋)辺りを特段に指定する場合、東三河(国)と呼称している。
レオン・パジェス(1814〜1886)の『日本切支丹宗門史』下巻の1631年の項でも三河、御油吉田と列挙していることからも、矢作川流域を三河と呼称していた。
幕末に編纂された徳川実紀において、初めて、西三河という呼称が登場する。この頃になって、ようやく三河国を東西に分割して、西三河(矢作川流域)、東三河(吉田川流域)と呼称するようになったと思われる[3]。
国府は2説があり、時代による移動があったという説もある。一つは、豊川市白鳥町上郷中・下郷中付近説で、総社があることや「おとど(大臣)」の地名から推定された。平成3年から9年度にかけて総社周辺の発掘調査が行われ、建物跡が確認された。政庁の可能性が高い。もう一つは、豊川市国府(こう)町中道付近説で、守公神社付近が政庁跡とする説がある。
大久保彦左衛門著の三河物語に、今川義元が尾張への出兵のくだりに、「先手ハ下地之御位・小坂井・岡(コウ)・御油・赤坂に陣取」、とある。
承久の乱の後に三河守護に任命された足利義氏が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に守護所を設置したと推定されている。矢作東宿には、額田郡公文所も設置された。
延喜式神名帳には26座25社が記載されており、全て小社である。
一宮は豊川市(旧:宝飯郡一宮町域)の砥鹿神社で、1264年の史料に「一宮領内麻宇田村」とある。
三河物語に、一ノ宮、市之宮とある。元禄14年の三河国絵図に、一之宮村とある。江戸後期の三河国図に、一之宮とある。天保8年の三河国全図に、一宮とある。
二宮は知立市の知立神社であるが、知立神社が二宮とする中世史料は見つかっていない。三宮は豊田市猿投町の猿投神社であるが、初見は1662年の史料で中世史料にはそれを示すものは見つかっていない。四宮以下はない。
総社は豊川市白鳥町上郷中にある「総社」。別名を白鳥神社上宮ともいう。
国分僧寺は、豊川市八幡町本郷にあった。昭和60年から63年の発掘調査で金堂、講堂、塔跡などが確認された。