三井三池炭鉱(みついみいけたんこう)は、福岡県大牟田市・熊本県荒尾市にあった炭鉱である。江戸時代から採掘が行われてきたが、1889年、三井財閥に払下げられた。日本の近代化を支えてきた存在であったが、1997年3月30日に閉山した。
炭鉱関連の遺産が多数残っており、近代化遺産(産業遺産)の面からも注目されている。
目次
1 歴史
1.1 江戸時代以前
1.2 江戸時代
1.3 明治時代以降
1.4 終戦後
2 三池争議
3 事故
4 閉山
5 閉山後
6 文化財
7 関連項目
8 外部リンク
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江戸時代以前
1469年 農夫の伝治左衛門が三池郡稲荷(とうか)村の稲荷山(現在の大牟田市大浦町付近)で「燃ゆる石」(石炭)を発見したと言われている。
江戸時代
1721年 柳河藩家老、小野春信が藩主より土地を拝領し、平野鷹取山(高取山)にての石炭採掘が始まる。
1738年 久留米藩の文書に稲荷山での石炭採掘に関する記述が見えるが、三池藩営であったかどうかは不明。
1790年 三池藩が領内での採炭および販売に関する規則である、「石山法度」を発布。
1853年 三池藩が生山(いもうやま)を開坑。
19世紀初頭には、三池で産出した石炭は瀬戸内海で製塩用などの燃料として使われていた。
1857年 平野山の西側に位置する生山と、平野山の間部(坑道)がつながってしまうという事件が起こり、両坑(両藩)の境界争いがはじまる。この境界争いが遠因となり、明治初期に三池炭鉱は官営となる。
明治時代以降
1873年 明治政府の官営事業となった。また、三潴県監獄の囚人を使役して坑外の石炭運搬や坑内の業務に当たらせ、これを皮切りに、明治中期頃まで周辺各県監獄の囚人が三池炭鉱で使役されることになった。
1876年 三井物産会社設立、官営三池炭鉱の輸送・販売を一手に取り扱った。
1883年 三池集治監開庁。囚人労働が本格化した。
1888年 三井組(三井財閥)に落札された。
1889年 三井組の経営となる。最高責任者(事務長)に任命された団琢磨(團琢磨)は、アメリカ留学で鉱山学・冶金学を学んだ後、工部省鉱山局の官吏として三池炭鉱に赴任していたが、払い下げと同時に三井に移籍した。
1891年 三池横須浜?七浦坑に蒸気機関車による運炭鉄道が開通(三池炭鉱専用鉄道)。
1892年 三井鉱山が創立された。団のもとで炭鉱経営の近代化、合理化が進められた。
1898年 宮原坑で操業開始。
1908年 三池港が開港。
1913年 三池ガス発電所が運転開始。
1923年 三池炭鉱専用線の電化が完成。
1930年 坑内請負制度・女子の入坑を廃止、囚人の採炭作業を廃止(他の鉱山ではかなり以前に廃止されていた)。
1931年 三池集治監閉庁。
1940年 三川坑が竣工。
終戦後
1960年 三井三池争議 石炭産業の斜陽化により、大量解雇の方針が出され、激しい労働争議が行われた。
1963年11月9日 三川坑炭塵爆発事故で458人死亡、一酸化炭素中毒患者839人。
1984年1月18日 有明坑坑内火災により83人死亡、一酸化炭素中毒患者16人。
1997年3月30日 三池炭鉱閉山。三池炭鉱専用鉄道は大部分が廃止されるも、一部は三井化学専用鉄道として残る。
2005年4月 三池労組が解散(国内最後の炭鉱労働組合)。
三井三池争議参照。
三池炭鉱も夕張炭鉱などと同様、開山当時から落盤などの事故が頻発していたと思われる。特に明治から昭和初期に掛けては、相当数の犠牲者が出る事故が発生しているが、多くの場合、記録の散逸・風化等により詳らかではない(囚人を使役していた事も、安全対策が不充分となった原因の一つとなっていたと思われる)。
1963年11月9日には三川坑で炭塵爆発が発生し、戦後最悪となる458人の犠牲者と839人の一酸化炭素中毒患者を出した。同じ日に国鉄東海道線鶴見付近で死者161名、負傷者120名を出した鶴見事故が発生したことと合わせ、「血塗られた土曜日」と呼ばれる。