三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。
目次
1 概要
2 「正史」と「演義」の違い
3 中国における三国志の受容と流行
3.1 正史の受容
3.2 演義・大衆文化の受容
4 日本における三国志の受容と流行
4.1 正史の受容
4.2 演義・大衆文化の受容
5 個別の記事
6 派生した作品
7 関連項目
8 外部リンク
9 注釈
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「三国志」とはその名のとおり、魏・呉・蜀の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。
その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として大成した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。
三国志愛好家が三国志について語る際、しばしば「正史」と「演義」の違いについて問題にされる。
「正史」とは、陳寿の『三国志』に記述されている事柄のことであり、『三国志』が王朝公認の歴史書(すなわち正史)に認定されたことから使われる呼び名である。
しかし、三国志の物語として知られる事柄は少なからず明代の白話小説である『三国志演義』によって創作されたものである。『三国志演義』は三国時代の治乱興亡について歴史小説として高い写実性をもって描いており、読者の多くが『三国志演義』の記述が史実であると思い込む傾向がある。しかし、『三国志演義』には少なからず説話本や雑劇から取り込まれた部分、あるいは作者自身による創作が含まれている。また、登場する地名・官職名・武器防具などは三国時代の時代考証からみて不正確なものも多い。
『三国志』は、信頼性の乏しい情報を極力排して簡朴明解な記述を行ったため、「質直さにおいて司馬相如を超える文章」(「陳寿伝」に載せる范?の上表)「人物評価に見るべきものがあり、記事は公正正確なものが多い」(裴松之「上三国志注表」)などの高い評価を受けた。しかし南朝宋の裴松之がその簡潔すぎる記述を惜しみ、当時存在した諸種の文献を引用し注釈を作成した。『三国志』とこの裴注、また『後漢書』、『晋書』、『華陽国志』、『世説新語』などに散見する三国時代の記述が三国志の史実世界を構成している。
『三国志』の戦乱と激動の記録は後世、特に唐宋の文人の詩想を大いに刺激した。『三国志』をモチーフにした詩詞としては杜甫「蜀相」、杜牧「赤壁」、蘇軾「赤壁賦」、陸游「書憤」などが特に名高い。
三国はそれぞれ正統性を主張したが、魏が蜀を滅ぼした後、魏から禅譲を受けるという形で司馬炎が建てた晋(西晋)によって、魏が正統であるとされた。晋にとっては、残った呉に対し魏の正統性を主張することによって、それを継承した晋王朝自体の正統性を謳う根拠たりえるため、当然のことであった。
しかし、南北朝時代に入り、晋が全国政権ではなくなると(東晋)、習鑿歯が蜀漢正統論を唱え、次第に注目されるようになった。宋代には三国のうちどの国が正統であるかという、いわゆる「正閏論」が盛んになり、司馬光(『資治通鑑』)・欧陽修(『明正統論』)・蘇軾(『正統弁論』)らは中国の過半を支配した実情から魏を正統とした。しかし、「正統」を決めようすること自体が現実的側面よりは観念的・倫理的な側面の強い議論であり、結局は観念論に基づいた朱子の蜀漢正統論(『通鑑綱目』)が主流となっていった。この歴史観は朱子学の流布と共に知識人階層に広まり、劉備を善玉とする『三国志演義』の基本設定に一定の影響を与えた。
清代に考証学が盛んになると、王鳴盛『十七史商?』・趙翼『二十二史箚記』・銭大マ『二十二史考異』・楊晨『三国会要』など多くの研究が著された。