一龍戦争(いちりゅうせんそう)とは、自民党内の竹下派七奉行の頃から自民党分裂・自社さ連立時代にかけて、後に首相を勤めた橋本龍太郎と現在民主党代表である小沢一郎との間で繰り広げられた抗争である。元々橋本の父(橋本龍伍)、小沢の父(小沢佐重喜)が吉田内閣で吉田茂元首相の側近であった事もあって、一説には親の代からの因縁といわれている。
目次
1 竹下派の結成
2 竹下派支配から経世会の分裂・竹下派全盛期を迎える。
3 自民党政権の崩壊・連立時代へ
4 与野党党首として一龍対決の本格化
5 一龍戦争の終焉
6 その後の一龍
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1985年竹下登が創政会を立ち上げる(=田中派分裂)と、田中元首相が娘眞紀子を通して竹下系議員を門前払いにした。後に田中家は小沢だけ門前払いを解いたのに対し、橋本は最後まで許さなかった。
1988年リクルート事件の発覚で翌年に竹下首相が退陣し、後継首相に宇野宗佑外相が決定すると、宇野の下で橋本を幹事長に就任させ参院選を乗り切ろうとしたが、選挙結果は惨敗。開票中に橋本幹事長が「チクショー」を連発して女性票獲得に繋がりポスト宇野と囁かれたが、橋本の女性スキャンダルなどの理由で竹下派内に反対論が噴出し橋本擁立は流れる。
結局、後継首相には河本派の海部俊樹が決まり、小沢は七奉行最年少ながら竹下派会長の金丸信の強い後押しで幹事長に大抜擢、橋本は大蔵大臣に就任した。この頃から「一龍戦争」が取り沙汰されるようになる。派内では橋本は竹下に、小沢は金丸に近かったことから、竹下金丸の代理戦争という側面もあった。
1991年の東京都知事選挙で党本部の公認候補(公明党・民社党相乗り)が党都連の推す現職鈴木俊一知事に敗れ小沢は幹事長を辞任し、竹下派ナンバーツーの会長代行に就任。また橋本も証券・金融不祥事と富士銀行の不正融資事件に元秘書が関わっていた責任を取って大蔵大臣を引責辞任した。
同年10月には海部首相が退陣表明。後継首相を決める総裁選では渡邉美智雄・三塚博・宮沢喜一の3派閥領袖を竹下派事務所に呼びつけ、小沢による口頭試問を行い、竹下派は宮沢推薦を決定。宮沢首相を誕生させる。
1992年6月PKO関連法案国会通過の後に東京佐川急便事件が発覚し、竹下派会長だった金丸副総裁が議員辞職に追い込まれると、竹下派会長の跡目を巡って橋本と小沢の抗争が激化。橋本は同期の小渕恵三元幹事長を、小沢はこれまた同期の羽田孜蔵相をそれぞれ領袖候補に推して争ったが、後継は小渕に決まった。小沢は羽田ら44人を率いて経世会から脱会し改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂する。その後、内閣改造で宮沢首相は小渕派厚遇・羽田派冷遇の人事を行い、翌年の不信任造反に繋がる。
1993年6月宮沢内閣不信任決議案が提出される。当初は与党の反対多数・否決の公算であったが、小沢の羽田派が不信任案に同調し可決され、宮沢首相は衆議院解散を行う(詳細は嘘つき解散を参照)。羽田派は離党し新生党を結成、小沢は党代表幹事(幹事長)に就任。7月の衆院選で新生は躍進、自民は過半数割れの惨敗で野党に転落する情勢となった。
宮沢首相が退陣表明し、後継総裁選で河野洋平官房長官が新総裁に選出されると、橋本が党政務調査会長に就任。この時に橋本政調会長が『下野の中で政調会長就任の何がめでたいものか』と発言。8月、非自民・非共産連立政権による細川護熙内閣の発足で小沢代表幹事が連立与党の責任者となる。
1994年4月細川首相が辞任し、羽田外相が後継首相になる。連立与党内で小沢に対する不満が高まり日本社会党や新党さきがけが連立与党から離脱、過半数割れの少数与党となる。そのまま羽田内閣が発足するも、同年6月に自民党の羽田内閣不信任決議案提出を前に内閣総辞職を表明する。
この時に橋本政調会長ら執行部が連立から離脱した日本社会党に水面下で接触し自社さ連立で合意、同月29日の首班指名選挙で自社さ3党が推す村山富市社会党委員長が、自民党を離党した海部元首相を破り首班指名を受ける。村山内閣の発足で橋本政調会長が通産大臣に就任。12月新進党結成で小沢前新生党代表幹事が海部党首の下で党常任幹事会幹事長に就任。
1995年阪神大震災や地下鉄サリン事件で対応にもたついた村山内閣の与党が統一地方選挙・参議院選挙で敗北すると、9月の自民党総裁選で橋本通産大臣が新総裁に選出され、12月新進党党首選で小沢幹事長が新党首にそれぞれ選出された。