一番町(いちばんちょう)は、仙台市青葉区にある町名、またはそこに存在するアーケード街である。仙台市都心部の一角をなし、同市の商業中心地の一つである。行政区としては南から北へ一丁目?四丁目と並んでいる。アーケード街は二丁目から四丁目にあり、一丁目は東北大学・片平キャンパスに隣接し旧学生街といわれる。2008年の住民基本台帳による人口は、1766人であった。
世帯数と人口[1]丁目世帯数人口
1丁目692世帯1195人
2丁目250世帯368人
3丁目36世帯85人
4丁目58世帯118人
計1036世帯1766人
目次
1 沿革
2 街区
2.1 一番町四丁目買物公園
2.1.1 特徴
2.2 一番町一番街商店街「ぶらんどーむ一番町」
2.2.1 一番町三丁目のブランド街化
2.3 サンモール一番町商店街
2.4 旧学生街地区
3 店外飲食
4 アクセス
5 関連項目
6 脚注
7 参考文献
8 外部リンク
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東一番丁は江戸時代には中級以下の家臣が住む侍町であった。武士は商業に携わることが禁じられていたから、当時の東一番丁に商店がおかれることはありえなかった。寛文年間頃(17世紀中頃)、東一番丁と玉沢横丁(現広瀬通り)との北西角に糠藁の倉があったため、現在の一番町四丁目商店街の辺りは糠倉丁とも呼ばれた。
2001年度年間商品販売額[2]丁目卸売小売
1丁目3340億4001万円85億0022万円
2丁目2481億2235万円75億6638万円
3丁目1471億6931万円783億6102万円
4丁目2143億3876万円638億5818万円
明治維新となると、戊辰戦争で敗北した仙台藩は石高を減らされ、大量の没落士族を生んだ。そのため、仙台藩の下級藩士たちは、在地で帰農したり、北海道に移住したりした。さらに、1871年(明治4年)に廃藩置県、1873年に徴兵制、1876年に廃刀令および秩禄処分と、藩士を支える組織、特権、経済基盤が次々と剥奪された。こうした世情にあって、仙台藩の家臣だった山家豊三郎は、玉沢横丁・東一番丁(現・広瀬通一番町)辺りにあった自邸内に数十戸を建てて「山家横丁」と称し、藩士たちに商売をさせた(士族の商売)。以後、東一番丁沿いには、芝居小屋、映画館、寄席、喫茶店、芸妓置屋、露店などが立ち並ぶようになり、藩政時代以来の商業中心地だった国分町の裏町、新興の商店街として賑わうようになった。東一番丁は商業分野における士族授産の場でもあった。
1887年(明治20年)、東北本線が塩竈まで開通し、仙台駅は東六番丁辺りに置かれ、国分町や東一番丁と仙台駅とをつなぐ大町・新伝馬町・名掛丁(名懸丁。なかけちょう)も商業地となっていった。また、1887年(明治20年)には、東一番丁の南端に旧制二高(現東北大学片平キャンパス)が出来ると、大正時代にかけて学生街としても発展した。1926年(大正15年)から2年の内に仙台市電循環線が全線開通し、南町通り東一番丁と定禅寺通り東一番丁の南と北の各々に電停が設置された。1927年(昭和2年)には「仙台プール」が仙台初のプールとして開業したが、早々に廃業した。
1932年(昭和7年)、大町・東一番丁の藤崎が呉服屋から百貨店となった。1933年(昭和8年)には、東一番丁北端近くに仙都ビル(地上5階、地下1階)が完成し、三越が入居した。これ以降、2つの百貨店を繋ぐ東一番丁が、国分町に取って代わって仙台の商業の中心地となっていった。
1965年に住居表示が「通り」沿いから、通りに囲まれた「ブロックごと」に変更されるにあたり、東一番丁周辺の商業地ブロックは「一番町」と名付けられた。これにより、江戸時代の侍町の名残りである「丁」は、町人町を示す「町」に書き換えられ、名実ともに商業の町となった。現在は、住所の表示や街の名前としては「一番町」、通りの名前としては「東一番丁通り」と、「町」と「丁」とを正式には使い分けされているが、「田」が付いているかいないかの微妙な違いでもあり、誤用も一般化しつつある。