仮称一式陸上攻撃機一三型(G4M1)
用途:双発攻撃機
分類:陸上攻撃機
設計者:本庄季郎
製造者:三菱重工業
運用者:日本(大日本帝国海軍)
初飛行:1939年10月23日
生産数:2,435機
運用開始:1941年6月
退役:1945年
運用状況:退役
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一式陸上攻撃機(いちしきりくじょうこうげきき。以下「一式陸攻(いちしきりっこう)」)は第二次世界大戦中の大日本帝国海軍(以下海軍とする)の主力陸上攻撃機。前作の九六式陸上攻撃機(以下「九六式陸攻」)と同じく三菱内燃機株式会社で設計・製造されたが、後継とされた陸上爆撃機「銀河」の戦力化が遅れた為、終戦まで主力攻撃機として使用された。なお連合軍側からのコードネームは「Betty 」。
目次
1 開発の経緯と名称
2 設計の特徴
2.1 戦闘機無用論とインテグラルタンク
2.2 海軍における攻撃機/爆撃機の分類
3 戦歴
3.1 「ワンショットライター」の由来
4 派生型
5 諸元
6 後継機
7 脚注
8 参考文献
8.1 メカ
8.2 戦史
8.3 証言集
9 作品
10 外部リンク
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1930年代海軍は、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン条約で対米劣勢を余儀なくされた戦艦・巡洋艦・航空母艦勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上にいる敵艦を攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)の開発に力を注いだ。
その第一作が三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所の本庄季郎技師を主務者として設計した九六式陸攻で、細い胴体に双垂直尾翼を配したスマートな機体であった。この九六式陸攻は当時としては高い性能を発揮したが、所謂「渡洋爆撃」で大きな被害を出したことから、九六式陸攻の欠点を除いた後継機として昭和12年9月に「十二試陸上攻撃機」が発注され、再び本庄季郎技師を主務者とした設計陣で開発に取り組んだ。初飛行は1939年10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年即ち皇紀2601年4月に制式採用されたため、「一式陸上攻撃機」と命名された。
本機の特徴としては下記の点が挙げられる。
空気抵抗を増やすことなく胴体を太くする事に成功し、九六式陸攻では胴体下の機体外部に搭載していた爆弾や魚雷を胴体内に収納することを可能にした。
エンジンには九六式陸攻の金星より大馬力の火星を装備し、速力の向上を図った。
主翼内をインテグラルタンクとし、4,000km以上に達する大航続力を得た。
開発当初から尾部に20mm旋回機銃を装備するなど、九六式に比べて防御火器を充実させた。
空気力学的洗練により大型双発機とは思えない軽快な運動性を得た。
当時、搭載火器による弾幕と高速力で敵迎撃機から身を守ることが可能という「戦闘機無用論」が存在していたが、九六式陸攻が日中戦争の渡洋爆撃においてかなりの損害を出したことから、十二試陸攻の要求性能には防弾装備も挙げられている。しかし当時最新の研究から、「近い将来、欧米の航空機銃は20mm級が主流になると考えられるが、これに対応した防弾装備と搭載力・航続力を併せ持たせることはエンジン出力から見て不可能なことから、防弾は最小限にして軽量化を図り、速力や高高度性能等の向上によって被弾確率を低下させた方が合理的」と考えられたため、要求時点から優先順位は低く、実機の開発においても他の性能を上げるために犠牲にされたという経緯がある。
当然、海軍も十二試陸攻の要求性能で大丈夫と考えていた訳ではないようで、十二試陸攻が発注された翌年の昭和13年に陸攻護衛専用遠距離戦闘機の「十三試双発陸上戦闘機」(後の夜間戦闘機「月光」)及び四発陸攻の「十三試大型陸上攻撃機」(後の「深山」)が同時に発注されていることからもそれが伺える。
海軍の性能要求に対し、当初三菱は三発もしくは四発機とすることを海軍に逆提案したものの拒否されている(三菱に要求されたのは双発陸攻で、四発陸攻は翌年に十三試陸攻として発注する予定があるため)。しかしながら、この結果双発を三菱に、十三試大攻を大型機の経験に乏しい中島に要求するという矛盾を起こすことになる。米軍の太平洋戦争における主力爆撃機のひとつ、ボーイングB-17フライングフォートレスは、やはり双発機相当の性能要求に対し、四発機で応えている。