ヴェルナー・フォン・ブロンベルク
1878年9月2日 - 1946年3月14日
生誕地シュタルガルト
死没地ニュルンベルク
所属組織ドイツ陸軍
軍歴1904-1945
最終階級元帥
戦闘第一次世界大戦
賞罰プール・ル・メリット勲章
鉄十字勲章
ヴェルナー・エドゥアルト・フリッツ・フォン・ブロンベルク(Werner Eduard Fritz von Blomberg, 1878年9月2日 - 1946年3月14日)は、ヒトラー政権の国防大臣(1933年〜1938年)、1936年に国防軍で最初の陸軍元帥になる。
人物
1878年:エミール・フォン・ブロンベルク陸軍中佐と妻エマの息子として生まれる。
1897年:ベルリン・リヒターフェルデのプロイセン陸軍士官学校修了後、プロイセン軽歩兵連隊に少尉として軍人生活の第一歩を踏み出す。
1907年〜1910年 :陸軍大学卒業後、ベルリンの参謀本部に配属。
1911年:陸軍大尉に昇進。
1914年:第一次世界大戦始まる。後備師団の参謀となる。
1916年:陸軍少佐に昇進。第7軍の参謀将校として活躍、1918年プール・ル・メリット勲章を受章。
1918年:第一次世界大戦終わる。
1919年〜1921年:ヴェルサイユ条約軍備制限下の10万人に限定された国防軍の中心である国防省 ( ⇒Reichswehrministerium, 英語:Ministry of Defense)に勤務。1920年に陸軍中佐に昇進。
1921年〜1924年:シュトゥットガルトの地方徴兵局に勤務、1923年に陸軍大佐に昇進。
1927年〜1929年:陸軍兵務局長。翌年、陸軍少将に昇進。
1929年〜1933年:第1軍管区(東プロイセン)司令官。
1932年:ジュネーブ軍縮会議のドイツ軍事代表団長。グレーナー国防相の方針に反対し、ドイツの軍備強化・ソビエト連邦との軍事協力に賛成していたため、会議や国際連盟からの脱退も辞さない姿勢を見せた。同年シャルロッテ夫人が五人の子どもを残して死去。
1933年:ヒトラー政権成立。
1933年1月30日:ヒンデンブルク大統領は、アドルフ・ヒトラーを新首相に任命する数時間前、ブロンベルクを国防大臣に任命、同時に歩兵大将に昇進させる(憲法では大臣の任命に首相の推薦を必要としていたので、これは違憲行為である)。ブロンベルクには保守派によるヒトラーの「囲い込み」と「飼い慣らし」が期待されていたが、元々ナチズムに好意的だったため、ヒトラーに接近しその信頼を得る。
第二国軍を標榜する突撃隊の排除。
1934年8月、いわゆるレームの反乱の際、国防軍の退役将軍の二人クルト・フォン・シュライヒャーとフェルディナント・フォン・ブレドウ ( ⇒Ferdinand von Bredow) が巻き添えを食って殺害されたにもかかわらず国防大臣として抗議もしなかった。また、ユダヤ系ドイツ人を国防軍から追放することに反対する将校団の抵抗をブロンベルクは押さえ込んだ。このためブロンベルクは何も出来ない「ゴムのライオン」と揶揄された。またアウグスト・フォン・マッケンゼンも将校集会において「何の罪もない2人の将軍が犠牲になったことは甚だ遺憾に思う。」と述べた。
1934年8月2日のヒンデンブルク大統領の死後、後継者ヒトラーに対して国防軍兵士が忠誠宣誓を行うよう図った。
1935年ヴェルサイユ条約軍事条項破棄に伴い、旧軍の伝統を復活させる。「国防省」も「軍務省 (Reichskriegsministerium, 英語:Ministry of War)」に改名される(本項においては以後も国防省を使用する)。ヒトラーは、同年彼の忠誠に対して国防三軍の指揮権を委任することで報いた。更に1936年陸軍元帥に任命、1937年1月30日、黄金のナチス党員章 ( ⇒Goldene Parteiabzeichen der NSDAP) を与えた。
1937年11月5日、彼はヒトラーの主宰する秘密会議に参加した。三軍の総司令官、ヴェルナー・フォン・フリッチュ(陸軍)、エーリッヒ・レーダー(海軍)、ヘルマン・ゲーリング(空軍)、外務大臣コンスタンティン・フライヘア・フォン・ノイラートが出席していた。議題は、隣国に対するヒトラーの侵略戦争計画であった。ブロンベルクは計画に賛意を示したが、国防軍の戦争準備が十分でない段階での早過ぎる開戦には陸軍総司令官フリッチュと共に懐疑的で、会議の合意は得られなかった。