ヴィリー・ブラント
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ドイツの政治家
ヴィリー・ブラント
Willy Brandt
ヴィリー・ブラント
生年月日1913年12月18日
出生地シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州
リューベック
没年月日1992年10月8日(満78歳没)
死没地ラインラント・プファルツ州
ウンケル
所属政党ドイツ社会民主党
配偶者ブリギッテ・ゼーバッハー
第4代首相
就任日1969年10月21日
退任日1974年5月7日
退任理由ギヨーム事件引責のため
 ・編・歴 

ヴィリー・ブラント(Willy Brandt, 1913年12月18日 - 1992年10月8日)は、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。第4代連邦首相1969年-1974年)。ドイツ社会民主党 (SPD) 党首1964年 - 1987年)。リューベック出身。1971年ノーベル平和賞受賞。



目次

1 経歴

1.1 初期の政治活動

1.2 ベルリン市長・SPD党首

1.3 連邦首相

1.4 その後


2 脚注

3 外部リンク

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経歴


初期の政治活動

本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラーム (Herbert Ernst Karl Frahm) 。リューベックに私生児として生まれる。のちに政治家になってから政敵にそのことを攻撃されたが、彼は一切ごまかそうとせず、却って周囲の評価を高めた。育ての親でもある母方の祖父がドイツ社会民主党(SPD)党員で市議会議員選挙にも出馬した影響で、早くも10代前半から同党の地元機関誌に寄稿し、1930年に17歳でSPDに入党。地元の実業学校に通って1932年にアビトゥーアに合格した。この間も地元機関紙に繰り返し寄稿し、その編集長であるユリウス・レーバーの影響を受けた。しかし少年時代から急進左派に属していたブラントは1931年10月にレーバーやSPDと決別し、社会主義労働者党(SAP)に入党した[1]。レーバーの世話で受けるはずだったSPDの奨学金が受け取れなくなったため、ブラントは進学をあきらめて地元の造船所で働いた。

1933年のナチス政権樹立後にSAPが活動を禁止されたため、地下で反ナチス活動を展開。SAP指導部の指示を受け、1934年にノルウェーに渡って党組織再建に従事。またジャーナリストとしての活動の傍ら、歴史学を専攻した。当時の偽名“ヴィリー・ブラント”をのちの1947年に正式な通名とし、政治家としての名乗りに用い続けている。他にもブラントを追ってノルウェーに亡命してきた元恋人と結婚したノルウェー人から借りた「グンナー・ゴースラン」という偽名を使い、ドイツへの潜入(露見を防ぐためノルウェー語なまりのドイツ語を話した)やスペイン内戦の取材活動の際に用いていた。1938年、ナチスにより国籍を剥奪され、ノルウェー国籍を取得。第二次世界大戦中の1940年にノルウェーがドイツ軍に占領されたとき捕虜になるが、正体がばれずにすぐ解放され、スウェーデンに亡命。ここで亡命SAPと亡命SPDの再接近に努めた。この亡命先でユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと知り合うが、彼はのちにブラントと同時期にオーストリア首相を務め、終生の友となった。

終戦後の1945年、ノルウェー紙の記者としてドイツに帰国しニュルンベルク裁判を取材。1946年に故郷リューベックでSPDの再建を知り、1948年にドイツ国籍を回復。第二次世界大戦中に国外亡命していたという経歴も、のちに政敵に攻撃されることになる。


ベルリン市長・SPD党首1961年3月13日、ホワイトハウスでアメリカ大統領ケネディ(左)と会見する西ベルリン市長ヴィリ・ブラント(右)

1949年、ベルリン選挙区から出馬して第一回ドイツ連邦議会の議員に当選。1992年の死去まで断続的ながら合計31年間にわたり連邦議会議員を務めた。1950年には西ベルリン市議会議員にも当選(1971年まで務める)。1955年、西ベルリン市議会議長。1957年には西ベルリン市長となった。同年11月から一年間、連邦参議院議長を務める。

東西冷戦のさなか1958年にはベルリン危機が発生、さらに1961年東ドイツベルリンの壁を建設し、西ベルリン市長としてその対応に苦慮する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki