ロベール・シューマン
首相:1947年-1948年
外相:1948年-1952年
職業:弁護士
ロベール・シューマン(Robert Schuman, 1886年6月29日 - 1963年9月4日)は、ルクセンブルク生まれのフランス人政治家である。キリスト教民主党(M.R.P.)員で、欧州連合創立者の一人とみなされている。
目次
1 生涯
2 雑学
3 第1次シューマン政権(1947年11月24日 - 1948年7月26日)
4 第2次シューマン政権(1948年9月5日 - 1948年9月11日)
5 関連項目
6 外部リンク
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ロベール・シューマンの父ジャンピエール・シューマン(1837年 - 1900年)は、ルクセンブルクとの国境を跨いだ所にあるロレーヌ地方エヴランジュに生まれたフランス市民であったが、ロレーヌ地方が1871年にドイツ帝国領になるとドイツ市民になった。ロベールの母ウジェニー・デュラン(1864年 - 1911年)は、ベタンブール生まれのルクセンブルク人で、1884年に結婚してドイツ市民になった。ロベール・シューマンは1886年にルクセンブルクのクローザンで生まれたが、血統主義によりドイツ人になり、アルザス=ロレーヌがフランスに奪還されると、1919年にフランス国籍だけを取得した。母はルクセンブルク語を話したため、ロベールの第二言語はドイツ語になった。フランス語は学校で習っただけなので(ルクセンブルク人はみなそうだった)、ドイツ語訛りのフランス語を話した。 ⇒[1]
シューマンは中等教育をルクセンブルクのアテネ・ド・リュクサンブール中等学校(元ジェスイットの大学)で受けたが、ルクセンブルクの中等学校の卒業証書はドイツでは役に立たないので、メッツでアビトゥア資格を取得しなければならなかった。大学教育はドイツの教育制度で受けた。ボン大学、ミュンヘン大学、ベルリン大学で学んで、法学士を取得した。
母親が交通事故で死ぬと、シューマンは一時宗教生活を考えたが、俗界の信徒でいることにした。しかし生涯を独身で過ごした。弁護士になり、第一次世界大戦の際には、ドイツ陸軍に入隊するには不適当と判断され、ドイツのカトリック会議( ⇒Katholikentag)およびメッツ市議会の議員になった。第一次世界大戦が終わると、アルザス=ロレーヌはフランス領になり、シューマンはフランス政界で活動を始めた。1919年、後年戦争中を除いて1958年まで名を連ねることになるティオンヴィユの地方議会の議員に初めて選出された。フランス議会ではレックス・シューマンの議案通過に大いに貢献した。シューマンはロレーヌの製鉄業における戦後の汚職を調査し、根気良く事件を明らかにしていった。
1940年、シューマンはナチスの統治に対する抵抗運動で逮捕された。ゲシュタポに尋問されたが、シューマンはダッハウ強制収容所には送られずに済んだ。意地の悪いナチス党大管区指導者ヨーゼフ・ビュルッケル( ⇒Josef B?rckel)の私邸に設けた牢獄に移送されたが、1942年に脱獄し、フランス抵抗運動に参加した。シューマンの人生は依然として危険だったが、1939年から1940年にかけて行ったように、敵愾心を乗り越えてのフランスとドイツやヨーロッパの和解を友人に語った。
戦後、シューマンは大きな名声を手に入れた。財務大臣になり、1947年から1948年まで短期間首相を務め、後年外務大臣になった。1950年5月9日、独仏間の緊張の主な原因を取り除くことを求め、ジャン・モネの計画を採用して、シューマンはドイツに石炭と鉄鋼業を共同で運営することを要請した。この要請は欧州石炭鉄鋼共同体の基礎になり、やがて欧州連合に発展した。この要請はシューマン宣言として知られ、この日5月9日は、欧州の日となった。
シューマンは後に司法大臣と「欧州の父」の称号を授かる欧州議会の議長を務めた。1958年、アーヘン市から、現在のフランスとドイツを支配したカール大帝にちなんで欧州の思想と平和に貢献した人に授けるカール大帝賞を受章した。ピウス12世章も受章した。
独身で謙虚で地味なシューマンは、宗教的な生活に徹した人物で、ピウス12世、トマス・アクィナス、ジャック・マリタンの著作に強く影響された。2004年5月15日、間もなく列福の元となる主教区の調査が完了すると発表され、このことにより、シューマンは福者に列せられるであろうと発表された。
ブリュッセルのシューマン区は、シューマンにちなんで名付けられている(地下鉄の駅、広場、鉄道の駅などの名にもなっている)。広場の周りは(“Rond Point Schuman”)は欧州議会同様に欧州委員会の本部のある建物などの様々な欧州機関がある。社会学大学はフランスのストラスブールにあり、シューマンにちなんで名付けられた。