東欧革命
ポーランド民主化運動
ハンガリー民主化運動
汎ヨーロッパ・ピクニック
ベルリンの壁崩壊
ドイツ再統一
ビロード革命
ルーマニア革命
革命勢力が用いた旗。当時のルーマニアの国旗から、共産主義を示す国章が切り取られ、穴が開けられた。
ルーマニア革命(‐かくめい、ルーマニア語:Revolu?ia roman?)は、1989年にルーマニアで発生した政変。別名:ルーマニア民主革命、ルーマニア政変。
いわゆる東欧革命における唯一の、武力による政権移譲。
目次
1 前史
2 革命の推移
2.1 発端
2.2 勃発
2.3 崩壊
3 革命後
4 関連項目
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ルーマニアは他の東欧諸国とは一線を画し、ソ連とも一定の距離を維持する独自外交を行っていた。これはルーマニアが産油国であり、ソ連に依存しなくても独自に外貨獲得やエネルギー資源の確保が可能だったためである。こうした状況はルーマニアをニコラエ・チャウシェスクによる独裁国家に変えてしまう事を容易にした一つの要因ともなった。
しかしながら1980年代に入るとルーマニア共産党による一党独裁政権は国内の経済政策に失敗し、ルーマニア経済の疲弊が始まった。経済の落ち込みは国民の生活にも反映され、チャウシェスクの独裁政権に対しての反目も日増しに強くなった。こうした状況の中で、ベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパ各国の共産党政権が次々と倒れたと言うニュースがルーマニアにも入ってくると、次第に革命(民主化)の機運が高くなっていった。
1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る(しかし、後になって、近所の病院の死体置き場から盗まれた遺体が現場に転がされていた、と言う噂が広まった)。
このデモは人権活動家でハンガリー改革派教会の牧師テケーシュ・ラースロー(ラースロー・テケーシュ)への国外退去処分に対するマジャル人(ハンガリー人)による抗議デモであった。
ティミショアラを含むルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー国境に近く、1919年のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊するまでハンガリー王国の領域であった。ルーマニアに留まったハンガリー系住民に対する政府の扱いは、あまり良いとは言えず、マジャル人であるラースローの国外退去処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。
12月21日 - 首都ブカレストで官製集会の最中に爆発事件が発生する。
ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催された。チャウシェスクの演説が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺)。(または10代の若者2人が爆竹を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い。)広場はパニック状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送(国営放送)で生中継されていたが、チャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見て、たじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された。(その後、放送は再開された。)
集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかし、この政治集会に対しても治安部隊が発砲、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが市民のチャウシェスク政権に対する不満は頂点に達した。
この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防大臣ワシーリ・ミリャに対し軍隊による群集への発砲を指示した。しかしミリャはこの命令を拒否、チャウシェスクの逆鱗に触れ即日処刑された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防大臣が自殺した」と報じたが事実はすぐ市民に知れ渡り、この事態は軍首脳が大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。