リー・ハーヴェイ・オズワルド(Lee Harvey Oswald, 別名Alek J.HidellあるいはO.H. Lee, 1939年10月18日 - 1963年11月24日)は、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ暗殺の実行犯とされる人物。ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。逮捕直後に、ジャック・ルビーによって暗殺される。
目次
1 プロフィール
1.1 海兵隊員
1.2 「射撃の名手」説
1.3 ソ連への亡命
1.4 射殺
1.5 疑惑
2 関連項目
3 外部リンク
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ニューオリンズで生まれ育つ、父親はオズワルドが生まれる前に死亡したので、おじのマレット(マフィアと付き合いがある人物)を頼った。離婚した母親に育てられ、成績は平均的。年少期はスパイドラマが好きだった。登校拒否の経験がある。兄の名前は、ロバート。兄が海兵隊に入ったとき、オズワルドは、民間の航空部隊(CAP)に参加していた。この頃からロシアの新聞を購読し始める。17歳で海兵隊に入る。公務の一環として、ロシア語を専門的に勉強した。
オズワルドは元アメリカ海兵隊員で、1957年日本の厚木基地に勤務していた際には航空管制官を務めた。その頃の月給は85ドル以下。軍病院によると性感染症を「職務の一環」で煩っていた。なお、この頃に同僚に対する殺人の容疑を掛けられたことがあるほか、銃の不法所持および発射の罪状で軍法裁判において有罪判決を受けている。軍を除隊後、アメリカの市民権を放棄し、ソ連に行き、ミンスクで生活をする。また、この時に得たロッキードU2偵察機の機密情報を、後にソ連に亡命したときにソ連当局に提供し、この情報が元で1960年5月1日にソビエト上空で偵察飛行を行っていた同型機が撃墜されたのではないかといわれている(U-2撃墜事件)。
「射撃の名手」説オズワルドが使用したとされるライフル銃・カルカノ
オズワルドは軍歴中の1956年12月に、200ヤード離れた50の目標に速射で48および49の命中を達成し「射撃の名手」とされた。しかし射撃術章には到達しなかった。そのため懐疑論者は、オズワルドがライフルで、彼が証言した位置から移動するケネディを正確かつ急速に撃つことができた可能性について疑問を呈している。後の友人によれば、オズワルドは優れた射手だった。しかしながら、後の実験では射撃術章を持つエキスパートの射手さえ、ケネディ殺害時に使用されたとされるイタリア製ライフル銃「カルカノM1938」を使用したウォーレン委員会およびCBSテレビによる再現の最初の試みの中で、オズワルドの主張した射撃を成功させることができなかった。
ソ連への亡命1963年3月31日にダラスの自宅庭で妻のマリーナが撮影したとされる写真(しかし後に合成写真である事が判明した)
オズワルドは日本の厚木基地での軍歴中にロシア語を学び、ソ連に旅行し、そのまま亡命した。1959年にアメリカのスパイとして疑われ、追放されることを避けるために自殺を試みた。その後、ソ連政府当局は、ミンスクでの生活を許可した。ここで彼はテレビ工場で働き、ソビエト人マリーナ・オズワルド(旧姓 Nicholayevna Prusakova または Alexandrovna Medvedeva)と結婚した。マリーナはオズワルドの死後に再婚し、マリーナ・オズワルド・ポーターと改名した。
オズワルドはかつてマルクス主義者であると主張し、駐モスクワアメリカ大使館にパスポートを返却しアメリカ市民権を放棄しようとしたが、その後考えを変えマリーナと娘を連れて1962年にアメリカへ帰国した。アメリカ市民権放棄の試みが、ソビエトからの技術的な秘密を獲得する為のCIAの計画だったとの指摘や、後に「共産主義シンパ」としての隠れ蓑のもとで諜報活動をする際の実績を作るためであったとの指摘をする者もいる。
オズワルドは1963年11月22日の大統領暗殺から2日後、告発前の郡拘置所へ移送される間に、ダラス警察の地下で、ダラスのナイトクラブオーナーでマフィアとの繋がりが深いジャック・ルビーによって射殺された。なぜマフィアとも関係の深いルビーがやすやすと警察署に入ることができたかという点や、オズワルドとルビーの間には共通の知人が何人もいたことや、2人自身が顔見知りの関係であったという証言もあるなど、暗殺に関して、オズワルドは実際の暗殺犯ではなく他のものを代表して行動したと主張する論者が多数存在する。
暗殺犯はオズワルドではない、あるいは単独犯ではないという説は未だ根強い。オズワルド自身は逮捕直後からはめられたと言っていた。