リーメスまたはリメス(Limes)は、ドイツのライン川とドナウ川の間に残るローマ帝国時代の長城跡。
目次
1 概要
2 歴史
2.1 前史
2.2 リーメスの建設
2.3 リーメスの放棄
2.4 リーメスの再発見
3 構造物
3.1 長城
3.2 物見櫓
3.3 城砦
3.3.1 ザールブルク城砦
3.4 ローマ街道
4 関連項目
//
リーメスはラテン語で境界を意味し、英語のLimitの語源でもある。最も広義にはローマ帝国の国境全域をさすが、通常は、国境防衛の遺構が現存し、「ハドリアヌスの長城」のように別の名称で呼ばれていない、ドイツの長城跡(リーメス・ゲルマニクス)を指す。リーメスの建設は、紀元1世紀末頃から始まり、目的としては、ゲルマン民族の侵入からライン川・マイン川流域の肥沃な土地と通商路を守るためであった。リーメスは、ローマ帝国の繁栄と衰退を象徴する文化的景観が評価され、2005年7月にイギリスのハドリアヌスの長城が拡張される形で、物件名「ローマ帝国の国境線」として、ユネスコの世界遺産に登録された。
(以下の地名は、いずれも現在の地名である。)
ローマ帝国は初代皇帝アウグストゥス統治下の紀元5年、ゲルマニア地方をエルベ川まで制圧する作戦を開始する。しかし、紀元9年にトイトブルクの戦いで3個軍団、35,000人の兵を失うという壊滅的な打撃を被った。この敗北で、ローマはゲルマニア地方での軍事的覇権を失い、その防衛ラインをライン川まで後退させざるを得なかった。その後、アウグストゥスは内政を優先させる政策を採り、またパンノニアでの反乱勃発などにより再度の侵攻を行わなかった。こうして防衛ラインとなったライン川であったが、その上流域東岸に広がるシュヴァルツヴァルトはゲルマン部族が得意とするゲリラ戦法に適した地形であり、付近の川幅は広くはなく防衛ラインとするに不安があるのは論を待たなかった。アウグストゥスの跡を継いだ2代皇帝ティベリウスはエルベ川までの制圧を指揮した歴戦の軍人であり、その制圧の困難さを知悉していたために、ライン川東岸の砦をすべて破壊し一定の距離を無人地帯とした上、西岸のライン軍団を強化し守備を固めることで、ライン川を防衛ラインとする方針を堅持した。以後、小競り合いを続けながらも、この地域の安定は守られていた。紀元83年、ローマ皇帝ドミティアヌスは、シュヴァルツヴァルトをローマ帝国の版図に収め、この地域の安全を確かなものにする政策を打ち出した。そして新たな軍事境界線として防塁を築くこととした。これがリーメス・ゲルマニクスである。
リーメスの建設はマイン川の南岸付近から開始された。この地域に住むローマに友好的な弱小部族マティアチ族から土地を買い上げ、マティアチ族に対して支配的でローマに敵対する部族カッティ族との間に防塁を築いたのだった。この工事は当然カッティ族の反感を招き、戦闘が行われたが、ローマ側が辛くもこれに勝利した。しかし皮肉にも辛勝であったことが防塁の重要性をさらに強調することとなった。こうしてマイン川の南岸 ヴェルト(Worth am Main)付近から南下し、ネッカー川沿岸 バート・ヴィンプフェン (Bad Wimpfen)付近にいたる防塁を築き、ネッカー川に沿ってシュトゥットガルト付近まで補助部隊の基地を配置した。この部分をネッカー・オーデンヴァルト・リーメスと呼ぶこともある。これ以後、リーメスは徐々に拡張され続けた。マイン川の北側では、ライン川のボンとコブレンツの中間付近から東に入り、ハーナウ付近でマイン川に達する防塁が築かれる。この部分を高地ゲルマニア・リーメスと呼ぶ。ネッカー・オーデンヴァルト・リーメスの南側は、シュトゥットガルトから東に折れて、北に張り出したゆるやかな弧を描きながらレーゲンスブルクのやや上流アイニンク (Eining)でドナウ川にまで達する防塁となった。これをレティシャー・リームスと呼ぶ。その間にネッカー・オーデンヴァルト・リーメスはその東側のオーデンヴァルトを包み込んで東に進出し、北はヴェルトからマイン川を10kmほど上流に遡ったミルテンベルク(Miltenberg)からネッカー川とほぼ平行に南南東へ直線的に延び、ロルヒ(Lorch)でドナウに至るリーメスに合流する形となった。こうした全長580kmを越えるリームスの全容が完成するのはハドリアヌス皇帝の時代になってからであり、アントニヌス・ピウス帝の時代まで改良・強化が加えられ続けた。
紀元260年、ローマ帝国皇帝ヴァレリアヌスが、サーサーン朝ペルシアの皇帝シャープール1世とのエデッサの戦いに敗れ、捕虜となった。この事件はローマ帝国の弱体化を白日の下にさらすこととなり、ゲルマン系部族が相次いで反ローマの戦いに蜂起した。リーメスを越えて侵入したのは、近くに暮らしていたアレマンノ族であった。結局皇帝ガリエヌスはリーメスを放棄してアレマンノ族に防衛を委ねることを決断し、ローマ帝国の防衛ラインは再びライン川?ドナウ川の源流域まで後退した。その後、リーメスは徐々に忘れ去られたが、どこまでも延びるリーメスの遺跡は地元の人から『悪魔の城壁』とあだ名された。