リディア(Λυδ?α Lydia リュディア、紀元前7世紀 - 紀元前547年)は、古代のアナトリア半島 (現在のトルコ) で栄えた王国。中心都市はサルディスであり、世界で始めて鋳造貨幣を導入したことで名高い(エレクトロン貨)。
紀元前7世紀にアナトリア高原で最も優勢となり、イラン高原のメディア王国と争った。紀元前560年に即位したクロイソス王は、西にエーゲ海沿岸のギリシア植民都市を征服し、東の国境となっていたハリス川を越えて東アナトリアに進出して、メディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世と戦った。
紀元前547年、キュロス2世率いるペルシア軍は、リディアの王都サルディスを占領してクロイソスを捕虜とした。これによりリディアはペルシア帝国の一属領となった。
目次
1 記録
2 歴史
2.1 初期の王朝交代
2.2 キンメリア人の侵入と撃退
2.3 アケメネス朝の支配
3 注
4 参考文献
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リディア王国に関する主要な記録はヘロドトスの『歴史』であり、それには伝説的な王朝の交替やギュゲス王に纏わる言い伝えが記録されている。他にホメロスの叙事詩や、幾つかの古代ギリシアの記録の中にリディアに関わる情報が残されている。19世紀以降、近代的な発掘調査が行われるようになると、リディア王国の繁栄を裏付ける数々の発掘品が発見されたことによって史料は増大している。
ただし、リディア王国に関する考古学的調査はアメリカのプリンストン大学発掘調査隊が主導した首都サルディスの調査を除けばあまり目ぼしい結果は得られておらず、サルディス遺跡における発見もローマ時代の物は豊富であるが、リディア王国時代の物は数量的に限られ、歴史記録の類もあまり発見されていない。
その他国外における貴重な史料としてはアッシリア人が残した楔形文字文書の中にリュディアに関わる外交記録が含まれるものがあり、同時代史料として極めて貴重である。特に伝説的な王ギュゲスはアッシュールバニパル王の残した年代記にルッディ王グッグとして登場することから実在が確実となった。
また貨幣も発見されているが、いずれも強くギリシアの影響が見られるもので最初期段階の貨幣については発見されていない。
リディアはホメロスの詩には「メイオン人の地」として知られ、ヒュデ市を中心として興ったと伝えられる。ヒュデ市は首都サルディス(リディア語:スファルト、アッシリア語:サバルダ)のアクロポリスの名前、あるいは旧市の別名と言われる[1]。リディアの興起は、東隣の大国フリギアと西のギリシア世界との間に位置するという交易上の優位性と、領内で金が産した事が大きな要因であった。
ヘロドトスの記録によれば、リディアではまずアテュスの子リュドスから始まるアティス王朝があり、「リディア」と言う国名はこのリュドスに由来し、それ以前のリディア人はマイオニア人と呼ばれていたという。その後神意によってヘラクレスと奴隷女を祖とするという一族(以下、ヘラクレス家)のアグロンがサルディスの王となり、以後22代、505年間にわたりヘラクレス朝がリディアを統治した[2]。
このヘラクレス家の最後の王であるカンダウレスは、自分の妻をあらゆる女の中で最も美しいと信じており、それを他人に自慢しようとした。そしてメルムナス家のダスキュロスの子ギュゲスに妻の自慢をしたが、ギュゲスが信じようとしないように見えたので、妻の寝所に忍びこんでその裸体を見るようギュゲスに強要した。ギュゲスは拒否しきれず指示通り覗き見を行ったが、寝所から出るところを妻に見つかってしまった。妻はギュゲスの除き見が夫であるカンダウレスの指示によるものである事を察し、夫への復讐を誓った。そして妻はギュゲスを呼び出し、カンダウレスを暗殺して自分とともにリディアを支配することを指示した。ギュゲスは躊躇したが、妻は彼に対して覗き見を行った罪を問われて死ぬか、自分とともに国を支配するかと脅した。そのためギュゲスはカンダウレス暗殺を実行し、カンダウレスの妻を自らの妃としてリディアの王となった[3]。
カンダウレスの殺害とギュゲスによる簒奪が周囲に知れるとリディア人達はこれに反対して武装蜂起を行ったが、ギュゲスは神託が自分の王位を認めたならばギュゲスがリディア王となること、そうでない時は王位をヘラクレス家に返還することを提案して武装蜂起側と合意した。そして神託の結果ギュゲスの王位が認められたのでギュゲスの一族に王位が移ったという[4]。これをメルムナス朝と呼ぶ。
以上がヘロドトスが『歴史』の冒頭に乗せている初期のリディアの歴史である。極めて伝説的であるが、初期リディアについての殆ど唯一のまとまった記録であるため、必ず参照されるものである。
ヘロドトスによればギュゲス王は、フリギアのミダス王以後デルフォイに奉納した最初の外国人であり、38年間の治世の間にミレトスなどイオニアのギリシア人都市を攻撃したが、他に特筆すべき業績は無いとして記述を終えている[5]。
このギュゲス王はアッシリアの王アッシュールバニパルが残した年代記、『ラッサム円筒刻文』に登場することから実在が確実視されている。