リビア爆撃 (1986年)
戦争:
年月日:1986年4月15日
場所:リビア
結果:作戦は成功するも国際的非難を浴びる
交戦勢力
アメリカ合衆国 リビア
戦力
第6艦隊
アメリカ空軍第48戦術戦闘航空団
第20戦術戦闘航空団リビア軍
損害
戦死2
撃墜F-111×1機破壊Il-76×3ないし5機
MiG-23×14機
ヘリコプター2機
死亡 一般市民15
リビアの位置
リビア爆撃(リビアばくげき)は1986年4月15日にアメリカ空軍及び海軍によって行われたリビアに対する空襲を指す。リビア最高指導者のムアンマル・アル=カッザーフィーに対する攻撃であった。
目次
1 背景
2 攻撃
3 被害
4 リビアの報復行動
5 結果
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アメリカ合衆国は、リビアがアブ・ニダルなどのテログループを支援しており、またシドラ湾における200海里の領海主張は国際法に反しているとして非難を行っていた。
1985年12月にウィーンとローマの空港で爆破事件が起こり、翌1月にアメリカはリビアが事件の背後にあるとして、リビアに対する経済制裁を行った。3月にはアメリカの空母戦闘群がシドラ湾に入り、3月24日にはリビアのミサイル艇とレーダー基地を爆撃している。
その後、西ベルリンのディスコで爆破事件が起こり、アメリカ人に死者が出るに至った。これらの事件にリビアが関与していると判断したアメリカは、報復としてリビア指導者のムアンマル・アル=カッザーフィーに対する暗殺を決意し、トリポリなどに対する爆撃を行うこととした。ただしわざわざ米兵を殺すためにベルリンのディスコの米兵を狙うとは考えづらいので、攻撃をしたアメリカを非難したものもいる。
攻撃レーザー誘導爆弾「GBU-10 ペイブウェイ II」を搭載した戦闘爆撃機F-111F アードバーク(1986年4月14日撮影)
アメリカと同盟各国による秘密裏の外交交渉が続いた後、ロナルド・レーガン大統領は4月14日に攻撃命令を発した。
攻撃作戦名はエルドラド・キャニオン作戦(Operation El Dorado Canyon)と命名されている。攻撃に参加したのはイギリス駐留のF-111(48TFW,第48戦術戦闘航空団)、EF-111(20TFW,第20戦術戦闘航空団)と地中海に展開していた第6艦隊の3隻の航空母艦(アメリカ、コーラル・シー、サラトガ)搭載の艦載機隊(A-6、A-7、F/A-18、EA-6B)である。
イギリスの部隊はフランスとスペインから領空の通過を拒否されたために、空中給油を行いつつ大西洋・ジブラルタル海峡を経由する迂回路を取った。この迂回路のために、飛行経路は2,000km以上伸ばされている。爆撃目標は、トリポリのカッザーフィーの居所や空軍基地、ベンガジの防空網などである。
攻撃は15分間に渡って行われ、レーザー誘導爆弾を含む300発の爆弾が投下され、48発のミサイルが発射された。
リビア軍の死者数の詳細は不明であるが、民間人15名とカッザーフィーの1歳3ヶ月の養女が死亡したとリビアは発表している。カッザーフィー自身は無傷であった。
また、アメリカ軍もF-111が1機がシドラ湾上空で撃墜され、乗員2名が行方不明となった。なお、うち1名は後に遺体がアメリカに返還されている。
リビアは報復として、イタリアにあるアメリカ沿岸警備隊の基地に対するスカッドミサイル攻撃を行ったが、これは海に着弾し、被害はなかった。また、1988年のスコットランド上空におけるパンナム機爆破事件もこの爆撃の報復とされている。
アメリカの行動は、イギリスなどを除き、他国に対する大規模な軍事行動として各国の非難を受けた。ただし、各国間の外交関係の根本的な変化は発生せず、アメリカとソ連との外交関係にも大きな影響はなかった。