ラッダイト運動(Luddite movement)は、1811年から1817年頃、イギリス中・北部の織物工業地帯に起こった機械破壊運動である。産業革命にともなう機械使用の普及により、失業のおそれを感じた手工業者・労働者が起こした。産業革命に対する反動とも、後年の労働運動の先駆者ともされる。機械所有の資本家には憎悪の対象であったが、詩人には創作の霊感を与えた。
ノッティンガムのネッド・ラダムまたはネッド・ラッド(Ned Lud)なる者が靴下製作機を破壊したのが最初という。彼の行為はランカシャーでも模倣され、やがて機械破壊者はラッダイトとして知られるようになる。
機械の破壊と工場建築物の破壊に対する最初の法律は、イギリスで1769年に制定された。それはこのような行為を犯罪とし、死刑が科されていた。
1811年2月、イギリス政府は機械破壊を死罪にする法案を改めて提出した。上院での第二議会では、出席した詩人バイロンは熱弁をふるってこの法案に反対し、労働者を弁護した。草案は1812年3月に法律となったが、1769年の法律同様、機械破壊を止めることはできなかった。一、二度は死刑執行はあったが、襲撃者を発見することがきわめて困難だったためである。ラッダイト指導者の首に二千ポンドに上る懸賞金がかけられ、はじめて密告者により検挙が行われた。1813年1月13日、ヨークの裁判所で指導者ジョージ・メラーをふくむ三名への死刑宣告があったが、『年報Annual Resister』(1813年)には、彼らは裁判の最後まで沈着な態度を示し、メラーとその同志は陰謀家のようには見えない、他の境遇のもとでは彼らは立派な人間であったろう、と記されている。その三日後、十五人の労働者が処刑される。
一度は鎮圧されたように見えたラッダイト運動は、1816年に再燃する。ノッティンガムで靴下職人が三十個の機械を破損し、イギリスの東部地方では農民が干草の堆積に放火した。彼らは脱穀機を打ち壊し、「パンか、血か」と書かれた旗をもって示威運動を行った。バーミンガム、プレストン、ニューカッスルでは失業者が示威運動を、ダンディーとグラスゴーでは軍隊と血なまぐさい衝突を起こした。 運動が一つの絶頂に達した1816年12月16日、バイロンはこの運動のために賦し、ラッダイトの人々をアメリカ独立戦争の人々に比している。海の彼岸の自由な若者は その自由を、安価に、血潮で購った。われわれ若人も、自由に生きるか、さもなくば死を賭して戦おう。そして国王ラッドのほかはすべての国王を打ち倒そう!
ラッダイト運動は、最初は衝動にまかせた望みのない破壊に終始するが、1818年のランカシャーではより高い賃金のためだけでなく工場法と婦人少年労働の規制のために戦い、1819年のマンチェスターでは普通選挙権と社会政策を求める政治行為となり、たんなる「産業革命に対する反革命」では終わらなかった。ラッダイト運動は農民一揆から労働運動への過渡期を担い、自由を追求する詩人に霊感を与えた。シェリーが種をまけ、しかし地主のためではなしに!富を築け、しかし馬鹿者のためではなしに!衣服を織れ、悪漢に着せるためではなしに!武器を鍛えよ、おまえたち自身を保護するために!
と歌ったのは、ラッダイト運動がついえた四年後のことである。
現代文明においてAI(Artificial Intelligence)によって人間の雇用機会が奪われるのではないかという不安から、AIの、あるいはそれに繋がる技術の開発を阻止しようとする考え方がある。米クリントン政権の労働長官であったロバート・ライシュは『勝者の代償』のなかでニューエコノミーを批判し、ITを象徴とする技術革新中心のニューエコノミーは消費者として豊かになればなるほど、生産者・労働者としてより不安定になると指摘した。技術革新を中心とした経済運営は所得格差による勝者と敗者を生み出すが、オールドエコノミー型の経済とは異なりその勝利も一時的なものにすぎず、勝ち続けるために個人生活をさらに犠牲にして働き続けねばならず、家庭やコミュニティがさらに破壊されてゆく、これを『勝者の代償』と呼んだ。
その上で、こうしたニューエコノミーの矛盾に対して三つの選択肢を提示する。
社会的副作用を生み出している技術革新や市場経済化を止める(=ネオ・ラッダイト運動)
現在進行している変化を行くところまで行かせる
両者のバランスを取る。
ライシュは3.の方向を目指すべきとした。詳しくは技術的特異点を参照のこと。 カテゴリ: イギリスの歴史 | 労働運動 | 産業革命 | 社会史
更新日時:2008年7月28日(月)17:55
取得日時:2008/09/28 07:14