公用語
首都ルアンパバーン
国王
1946年4月23日 - 1959年10月20日シーサワーンウォン
1959年10月29日 - 1975年12月2日サワーンワッタナー
首相
1962年6月23日 - 1975年12月2日スワンナ・プーマ
ラオス王国(Kingdom of Laos)は20世紀のラオスに存在した歴史上の王朝。旧ルアンパバーン王国とチャンパーサック王国の統合によって、近代国家としてのラオスの領域を確定させた。首都はヴィエンチャンに置かれていたが、旧ルアンパバーン王国の王族が国王を務めていた為、王宮の所在地はルアンパバーンであった。なお、今日のルアンパバーンは町全体が世界遺産に登録されており、かつての王宮も保存されている。
目次
1 独立までの経緯
2 内戦と消滅
3 国王一覧
4 年表
5 関連項目
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仏領インドシナ連邦下のラオスは、北部のルアンパバーン王国と南部のチャンパーサック王国とに分裂していた。そのような状況は第二次世界大戦下でも続いていたが、1945年3月9日に日本軍が仏印処理を断行して植民地政府の権力を握ったことで状況は変わった。4月初めにルアンパバーンに到着した日本軍は、4月8日にルアンパバーン王国のシーサワーンウォン王をラオス王国の国王として、ラオス王国のフランスからの独立を宣言させた。この独立は日本軍に強制された形式的なものであり、またチャンパーサック王国が存続していたことから、王国の支配はラオス全域には及んでいなかった。だが、従前の仏領インドシナ連邦の支配体制が崩れたことで自立への新しい道が開け、ルアンパバーン王国時代から首相職にあったペサラート(ルアンパバーン王国の副王の王子)は行政のラーオ族化を進めていった。しかし、同年8月15日に日本が連合国に降伏すると、王国の指導者や王族の間で意見の対立が生じるようになり、結果的にそれがラオス人民民主共和国の成立に至るまでの騒乱の源となった。
日本が第二次世界大戦で敗北すると、日本軍の後ろ盾を失ったシーサワーンウォン王はラオス独立の宣言を撤回した。これに対し、独立を求める民族主義者達はレジスタンス組織のラオ・イサラ(Lao Issara、自由ラオス)を結成し、同年10月に臨時政府を樹立した。しかし、1946年4月にフランス軍がラオスを再制圧し、ラオ・イサラの指導者達はタイ王国に亡命した。フランスは同年8月、親仏派のシーサワンウォン王に対し、フランス連合における統一ラオス王国の王として内政の自治権を与えた。それを受け、シーサワンウォン王は1947年5月に憲法を制定し、ラオスを立憲君主国とした。1949年7月19日、第一次インドシナ戦争を戦っていたフランスは、同年6月に成立したベトナム国の正統性を強調し、かつインドシナ全域に影響力を残すために、ラオスをフランス連合内の協同国として独立させた。その後、王国政府の懐柔により、タイに亡命していたラオ・イサラの指導者達は、亡命政府を解散してその多くが国内に戻った。しかし、王国政府の懐柔に妥協しなかったラオ・イラサの左派勢力は、ベトミン及びインドシナ共産党に触発され、スパーヌウォン王子やカイソーン・プムヴィハーン(インドシナ共産党員)を主導者として、1950年8月にネオ・ラオ・イサラを組織した。