ユーリ・アンドロポフ
Юрий Владимирович Андропов
ソビエト連邦第6代最高指導者
任期:1982年11月12日 ? 1984年2月9日
出生:1914年6月15日
ナグトスコエ
死去:1984年2月9日
モスクワ
政党:ソビエト連邦共産党
ユーリー・ウラジーミロヴィチ・アンドローポフ(Юрий Владимирович Андропов, Yurii Vladimirovich Andropov, 1914年6月15日 - 1984年2月9日)は、ソビエト連邦の指導者。第4代ソ連国家保安委員会(KGB)議長。上級大将。
目次
1 プロフィール
1.1 初期
1.2 KGB議長
1.3 書記長
2 関連項目
3 参考文献
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スタヴロポリ地方ナグツカヤ出身。コムソモール(共産主義青年同盟)から共産党専従に移る。ソ連共産党中央委員会附属高等党学校を卒業。1940年から、フィンランドと国境を接するカレリア自治共和国を担当する。住民にフィン人(カレリア人)を多く抱え、ソ連・フィンランド戦争(ソ芬戦争)で一時フィンランド軍の占領を受けるなど複雑な事情を抱えていた地域で指導者として政治的力量を認められた。
1951年にオットー・クーシネンの推薦でソ連共産党の国際活動・外交及び諜報部門に活動の場を移した。特に1956年のハンガリー動乱では駐ハンガリー大使(在任1954年から1957年)として鎮圧に関わった。中ソ論争では、党社会主義諸国連絡部長として対応に当たった。1957年からソ連共産党中央委員会の課主任。
1961年に党中央委員会の一員となり、1962年には党中央委員会書記に昇進した。その後1967年に一旦党中央委員会を離れ、国家保安委員会 (KGB) 議長に就任し、以後15年の長きにわたって同職を務めることとなる。KGB議長就任と同時に党政治局員候補となり、1973年に党政治局員となる。秘密警察の責任者が政治局に入るのはラヴレンチー・ベリヤ以来のことであった。KGB議長としては外交面での緊張緩和(デタント)がソ連国内でイデオロギーを弛緩させることに関して警戒し、峻厳な治安政策をとった。アンドロポフは、異論派運動を弾圧し、ソルジェニーツィンの国外追放やアンドレイ・サハロフをゴーリキーに流刑にするなど反対派の弾圧に辣腕を振るった。一方で、KGB議長としてソ連内外の情報を管理・知悉する立場から、ブレジネフ時代後半の「停滞の時代」にあって危機意識を強め、体制内改革を志向するようになっていった。
1982年5月、ミハイル・スースロフの死去後、中央委員会書記(イデオロギー担当)に返り咲き、ブレジネフの最側近で後継者と目されたコンスタンティン・チェルネンコを追い上げていった。共産党の官僚組織をバックにするチェルネンコに対し、アンドロポフのバックには長く議長を務めたKGBと、ドミトリー・ウスチノフ国防相を初めとする軍があった。同年11月ブレジネフの死去に伴い、葬儀委員長に就任。大勢を決した。後継書記長を決める政治局会議ではウスチノフがアンドロポフを推薦したとされる。一方、正式の会議の前には根回しが済んでおり、会議ではチェルネンコ自らアンドロポフを推薦したとの説もある。(『七人の首領 下』)11月12日ソ連共産党中央委員会書記長に就任。この間、1983年6月から1984年まで最高会議幹部会議長も兼任した。
チェルネンコらは、アンドロポフの書記長就任に当たり前任のブレジネフの基本路線を踏襲することを求めたが、アンドロポフは政権獲得後、直ちに綱紀粛正と経済再建のための労働規律強化に着手した。外交面では、アフガニスタン戦争で揺らいだデタントの再構築というブレジネフ末期の基本目標を継承した。同郷で若手の党活動家だったミハイル・ゴルバチョフや、ニコライ・ルイシコフ(後に首相)を登用、ペレストロイカへの道筋をつけた。(ゴルバチョフの昇進には、スースロフと並んでアンドロポフの力があずかったのは事実だが、ゴルバチョフの政治局員就任はブレジネフ在世中の1980年である。アンドロポフが登用した政治局員はヘイダル・アリエフとヴィタリー・ウォロトニコフ、書記はルイシコフとエゴール・リガチョフである)
持病の糖尿病による腎機能低下の障害は、書記長就任後から彼の政治的識見と能力発揮の阻害要因となり、最高会議幹部会議長選出の際の受諾演説の際も演壇まで歩ける状態になく、やむなく自席で行うなど病状悪化が明瞭になった。