メキシコ革命(メキシコかくめい、Revolucion Mexicana)とはラテンアメリカで最初の社会革命であり、メキシコのその政治体制を決定づける事件であった。1911年にはじまり、国内を二分する激しい戦いが断続的に10年以上続いた。
目次
1 ディアス再選反対運動
2 マデーロの革命
3 ウエルタ将軍の反革命
4 ウエルタ政権に対する革命
5 セラヤの決戦とカランサ派の勝利
6 1917年憲法とカランサの退場
7 内戦の終結
8 ラサロ・カルデナス政権
9 関連項目
10 外部リンク
11 関連書籍
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メキシコ革命は、1877年以来メキシコ大統領の座にあったポルフィリオ・ディアスに対する反対運動として始まった。ディアスは、1860年代フランスの侵略と戦い、それを撃退した英雄の一人であったが、大統領になってからは、政治的には反対派への弾圧を繰り返し、経済的には無原則な外資導入によって国内の主要産業のほとんどすべてを外国資本に売り渡す政策を続けていた。外見的には、この外資導入により鉄道敷設が進むなど産業の振興と経済の発展が進んだかに見えたが、その反面で貧富の差が極端に拡大した。
また、ディアス政権は近代的な国家の体裁を整えるために、土地の登記制度を進めた。しかしメキシコの先住民には元々土地の所有などという概念はなく、ほとんどの農民は所有権のはっきりしない村ごとの共有地で農耕を営んできた。ディアスは土地制度の「近代化」のために、そのような所有権の曖昧な土地を政府が接収し、外国資本や大農園主に売却する政策を進め、その結果メキシコの農民の99.5%が土地を失い、ペオンと呼ばれる農業労働者に転落した。土地を取り戻そうとする先住民たちの戦いはすべて、政府軍と大農園主や外国資本の私兵による弾圧によって鎮圧された。
1907年米国で不況が発生し、メキシコにもその影響が及び始めると、外見的なメキシコの経済発展も揺らぎはじめた。大農園主の中にも経営が苦しくなる者が現れ、多くの農業労働者が職を失い、鉱山労働者を中心に労働争議が頻発し始めた。それでもなお、ディアスは1910年の大統領選に立候補した。それに対しディアス再選反対を掲げて立候補したのが、新興の大農園主フランシスコ・マデーロであった。マデーロは政治的手腕はともかくとして、農民のあいだにカリスマ的な人気があり、30年にも及ぶ独裁政治で腐敗の極にあったディアス政権に飽き飽きしていたメキシコ人の間で急速に支持を広げていった。この状況に危機感を募らせたディアス大統領は、「民主的な選挙」という近代国家の仮面をかなぐり捨てた。マデーロは逮捕され、投票日をサン・ルイス・ポトシの監獄で迎えた。
選挙が終わり、ディアスが大統領に再選されると、マデーロは釈放されたが、すぐに米国に逃亡、10月25日にサン・ルイス・ポトシ綱領を発表してディアス政権の武力による打倒を宣言する。
米国にいたマデーロの周囲には思うように同志が集まらなかったが、その間メキシコ国内ではマデーロに同調する動きが相次いだ。11月18日、マデーロの同志アキレス・セルダンが、プエブラ市にある館で武装蜂起の準備が露見し、警察に踏み込まれて射殺された。これをきっかけに、メキシコ市の南隣モレーロス州では、エミリアーノ・サパタが武装蜂起、北部一帯ではフランシスコ・ビリャ(パンチョ・ビリャ)、パスクァル・オロスコ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンなどが次々と反乱に立ち上がる。
ディアス大統領は80歳を越えて、その政治手腕は以前と比べて摩滅しており、側近が政治を壟断する状況となっていた。反乱軍が、米国との国境の要衝シウダー・ファレスを占領すると、ディアスの側近たちはマデーロと裏取引し、ディアス一人を生け贄にして体制の維持を図ろうと画策する。マデーロも、その裏取引に応じた。マデーロはただちに戦闘を中止し、政府との休戦交渉を開始する一方、ディアスは側近たちに説得されて大統領を辞任、フランスに亡命する。1911年5月、フランシスコ・マデーロはメキシコ大統領に就任した。
マデーロは、農民のあいだにカリスマ的な人気があったが、本質的には大農園主出身の政治家であり、メキシコに民主的な制度を導入し近代国家の外見を整えることには熱心だったが、貧富の格差の解消・土地改革など農民の貧しい生活を改善することには興味を示さなかった。しかし、彼の反乱に参加した農民たちは、パンと農地のために戦ったのであった。革命に参加した農民たちは、マデーロの政策に幻滅した。その一方で、保守派も彼に対して幻滅していた。全盛期のディアスや、後のカランサのような政治的手腕がなかったからである。
最初にマデーロと決裂したのは、モレーロス州で戦っていたエミリアーノ・サパタであった。彼は「強奪された土地・森林・水利などの財産は、正当な権利を有する村及び人民が直ちに保有するものとする。」とする「アラヤ綱領」を発表してマデーロ政権に反乱を宣言する。続いて、北部では革命軍の指導者の一人だったが、高い地位につけなかったことに不満を抱いていたパスクァル・オロスコ将軍が、保守派の支援を受けて反乱を起こした。このふたつの反乱の鎮圧に出動したのが、ディアス政権から引き続いて軍の実権を握っていたビクトリアーノ・ウエルタ将軍であった。
さらに1913年2月9日には、首都メキシコ市でも保守派の反乱が勃発した。ウエルタ将軍は、マデーロ大統領の命令を受けて反乱を鎮圧するふりをしながら実際にはなかなか鎮圧せず、その一方で大統領に忠誠を誓う部隊に対しては反乱軍に対して無謀な突撃命令を出して大きな犠牲を出させ、その力を削いでいた。実は、ウエルタは米国大使館の仲介で、反乱軍と内通していたのだった。
2月18日、ウエルタ将軍自身がクーデターを起こし、マデーロ大統領とピノ・スアレス副大統領を逮捕・監禁した。ウエルタ将軍は、マデーロを脅迫し、命の保証と引き替えに大統領辞任を承諾させた。だが、マデーロに代わって大統領となったウエルタ将軍は、約束を反故にして、2月22日マデーロとスアレスを殺害する。
政治的には有能だったとは言えないが、カリスマ的な人気があったマデーロ大統領を殺害してウエルタ将軍が政権を握ると、マデーロ支持派と反対派とを問わず、ほとんどの革命派が一斉にウエルタ政権打倒の兵を挙げる。