ミハイル・トゥハチェフスキー
1893年2月16日 - 1937年6月11日
渾名赤軍の至宝
赤いナポレオン
生誕地アレクサンドロフスコエ
死没地モスクワ、ルビヤンカ刑務所
所属組織ロシア帝国陸軍
ソ連赤軍
軍歴1914 - 1937
最終階級ソ連邦元帥
部隊近衛セミョーノフ連隊(ロシア帝国)
指揮第一革命軍司令官
第五軍司令官
西部方面軍司令官
赤軍参謀長
陸海軍人民委員代理・兵器局長
共産党中央委員候補
戦闘第一次世界大戦(ロシア帝国)
ロシア内戦
ポーランド・ソビエト戦争
クロンシュタットの反乱
賞罰赤旗勲章
死刑(名誉回復)
ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー(ロシア語:Михаил Николаевич Тухачевский, 1893年2月16日 - 1937年6月11日)はソビエト連邦の軍人。ソ連邦元帥。
赤軍の機械化を推進。数々の画期的戦術理論を編みだし、赤軍の至宝、あるいは赤いナポレオンと呼ばれた。とりわけ彼の「縦深戦術理論」はその後の軍事理論に大きな影響を与えた。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の1人。
目次
1 経歴
2 人物像
3 参考文献
4 関連項目
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帝政ロシアの没落貴族の息子としてアレクサンドロフスコエに生まれた。生後まもなくトゥハチェフスキー家は経済的困窮のためモスクワ南東ヴォルガ川流域の都市ペンザへ移住し、ミハイルも同地の中学校に通った。
1909年にはモスクワへ引っ越し、陸軍幼年学校へ入学。幼年学校を首席で卒業した後、アレクサンドルの士官学校へ入る。1914年7月、ロシア帝国陸軍少尉に任官して、「近衛セミョーノフ連隊」に配属され、この直後にはじまった第一次世界大戦に従軍。最初の6ヶ月間で6個の勲章を授与される活躍をして大尉まで昇進したが、1915年2月にロムツァ郊外でドイツ軍の捕虜となる。その後、五度にわたる脱走の試みのすえ、1917年8月に成功。パリとロンドンをへて晩秋にロシアへ帰国したが、すでにロシア国内では2月革命で帝政は崩壊し、アレクサンドル・ケレンスキーによる臨時政府が誕生していた。さらにそれも10月革命でレーニンらボリシェヴィキに倒される。
こうした情勢の中、祖国の新しい権力に従うことを決めたトゥハチェフスキーは、1918年4月にボリシェヴィキ党と赤軍に入る。まともな軍事教養を持たない農民などの被支配階級がほとんどの赤軍では元帝政軍人は重用され、トゥハチェフスキーも中将・軍司令官の待遇で迎え入れられた。1918年6月には第一革命軍司令官としてヴォルガ川流域まで破竹の勢いで侵攻してきたチェコスロヴァキア軍と戦い、9月にはシビルスクを占領してレーニンから賞賛された。1919年3月、シベリア政府(白軍)のコルチャーク軍の進攻があった際には主力である第五軍司令官を任せられ、見事にコルチャク軍を撃破。この功績で赤旗勲章を授与された。さらに1919年秋になると、今度はデニーキン将軍の軍勢が南方からモスクワに迫り、トゥハチェフスキーは南方方面軍司令官としてこれと相対し、優れた戦争指導で1920年3月までにデニーキン軍を総崩れにする。
しかしそれも束の間で1920年4月に今度はポーランド軍(国境問題でロシアと対立していた)が内乱に付け込んでロシア領へ侵攻してくる。トゥハチェフスキーは西部方面軍司令官として参戦、「我々の銃剣で勤労人類に幸福と平和をもたらす。西欧へ」と世界革命の前哨戦と主張し兵士達を鼓舞しながら、この戦いもまたトゥハチェフスキー軍の活躍によりポーランド軍を敗退に追いやり6月には逆にロシア軍がポーランド領へと侵攻した。しかしこの時、トゥハチェフスキーは首都ワルシャワの攻略を試みて失敗。レーニンはこれを隣接の南西方面軍の協力がなかったためであるとし、その責任を南西方面軍軍事委員だったスターリン一人に押し付けたので(これによりスターリンは革命軍事会議議員を罷免される)、トゥハチェフスキーが罰せられることは無かった。しかしこれがスターリンのトゥハチェフスキーへの深い逆恨みの憎悪の発端となったという。その後、ポーランド軍はフランスの支援を受けて反転攻勢に転じ、トゥハチェフスキー率いるロシア軍は惨敗して命からがら帰国した。トゥハチェフスキー唯一の敗北の戦争であった(ポーランド・ソビエト戦争)。
1921年3月にはクロンシュタットで水兵の反乱、5月にはタンボフ州での3万人の農民蜂起などがあったが、いずれもトゥハチェフスキーがこれを鎮圧。