ポーランド分割(ポーランドぶんかつ、ポーランド語: Rozbi?r Polski・Rozbiory Polski、リトアニア語:Lietuvos-Lenkijos padalijimai、ベラルーシ語: Падзелы Рэчы Паспал?тай、ウクライナ語: Под?ли Реч? Посполито?)は、18世紀に、ポーランド・リトアニア連合の領土が3度にわたって周囲3つの大国に奪われ、最終的に完全に領土を失って滅亡したことを指す歴史用語。
目次
1 概要
2 歴史
2.1 序章
2.2 第1次分割
2.3 第2次分割
2.4 第3次分割
3 備考
4 関連項目
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プロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア大公国が関わったポーランド・リトアニア連合領土の分割は、
1772年8月5日
1793年1月23日
1795年10月24日
の3度にわたって行われた。
ナポレオン戦争後、ナポレオン・ボナパルトは、ポーランド・リトアニア連合のポーランド王国地域をワルシャワ公国として復活させた。しかしながら、ナポレオン戦争はナポレオンの敗北で終わり、ウィーン会議の結果ポーランドは再び分割された。この分割に参加した国家は、それぞれが併合した領土を(少なくとも建前上は)ある程度自治権を有する
ポズナン大公国
クラクフ共和国
ポーランド立憲王国
とすることを決定した。
いずれもポーランドの文化とポーランド人の権利を尊重して、ポーランド語の使用を承認することが保証されていた。しかしながら、それらの約束はすぐに破られ、領土は再併合された。
ポーランド・リトアニア連合(以下ポーランド)はヤギェウォ朝(1386年 - 1572年)の断絶後、選挙王制をとっていたが、外国の干渉と貴族間の争いが頻発するようになり、国力が衰えた。17世紀中葉には「大洪水時代」(北方戦争)を迎え、スウェーデン王国主導による分割(未遂)の脅威を受けた。
18世紀に入ると、ポーランドは大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデンのカール12世によって親スウェーデン派のスタニスワフ・レシチニスキ(スタニスワフ1世)が王位につけられた。その傀儡王権がロシア帝国によって倒されると、ポーランドはロシアの影響力の下に置かれるようになった。さらにポーランド継承戦争が起こるに至って、ポーランドは近隣列強の干渉を受けるようになった。
ロシアのエカチェリーナ2世は、アウグスト3世が死去した1763年頃から、親露派の貴族である元愛人のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(スタニスワフ2世、在位1764年−1795年)を王位につけるなど、さまざまな内政干渉を行うようになった。プロイセン王フリードリヒ2世はロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪われることを警戒、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世を誘ってポーランド分割を提唱した。ポーランド側に復興への改革の兆しが表れたことに不安を感じたエカチェリーナ2世はプロイセンとオーストリアの提案に応じ、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割(1772年)が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得した。 ポーランドの第1回分割後、スタニスワフ2世はエカチェリーナ2世の意にそぐわず、ポーランド王国の再興を目指すようになり、国内の民主化勢力を糾合してヨーロッパ初の成文憲法「5月3日憲法」を制定し、王権を世襲制とし世界初の立憲君主制に踏み出した。