ボナパルト朝(ボナパルトちょう)とはフランスで出来た最後の王朝である。
目次
1 歴史
2 ボナパルト朝歴代皇帝
3 帝位請求者
4 関連項目
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そもそもボナパルト家はコルシカ島の小さな貴族の家柄であったが、一族のナポレオン・ボナパルトがブリューメル18日のクーデターで第一統領に就任し、その後彼を「フランス人の皇帝」に推戴させる選挙を行い、圧倒的な賛成でナポレオン1世として皇帝に即位した(フランス第一帝政)。
ナポレオン1世がヨーロッパ各国を侵略し始めると、ナポレオン1世は自分の兄や親類をその侵略地の国王や大公に仕立て上げた。
兄:ジョゼフ・ボナパルト - 当初はナポリ王(ジュゼッペ)、後にスペイン王(ホセ1世)。
弟:リュシアン・ボナパルト - カニノ公
妹:エリザ・ボナパルト - トスカーナ大公
弟:ルイ・ボナパルト - ホラント王(ローデウェイク1世)・ベルク大公・クレーフェ大公・サン=ルー伯
甥:ナポレオン・ルイ・ボナパルト - ホラント王(ローデウェイク2世)
弟:ジェローム・ボナパルト - ヴェストファーレン王
養子:ウジェーヌ・ド・ボアルネ - イタリア副王(王はナポレオンが兼ねた)
実子:ナポレオン2世 - ローマ王・ライヒシュタット公
しかし、ナポレオンが没落すると、それぞれも没落して行った。
ナポレオン1世の没落から約30年後、ルイ・ボナパルトの三男ナポレオン3世がフランス第二共和政大統領に当選し、その後クーデターと選挙を行い、叔父同様に皇帝に即位した(フランス第二帝政)。
しかし、スペインでの王位継承権問題がきっかけでプロイセン王国と開戦(普仏戦争)したが、戦局はフランス不利に傾く。セダンの戦いでナポレオン3世自らが指揮を執ったが敗北してしまい、皇帝自らが捕虜になってしまった。皇太子であるナポレオン4世は帝位に就かず、皇太子のまま政治を見たが、パリの民衆の暴動のために2日間でイギリスに亡命した。
ボナパルト朝歴代皇帝
ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)
ナポレオン1世の失脚後に、正式に即位はしていないが、皇太子がナポレオン2世として公的に認められる。幼年のため親政はせず。
ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン・ボナパルト)
父ナポレオン3世がプロイセン軍に捕らわれた後、皇太子のナポレオン4世が政治を見たが、皇帝に即位せず。
ナポレオン1世失脚後のフランス帝位請求者=ボナパルト家家長は以下の通りである。
ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト、1814年 - 1815年、1815年 - 1821年) ※1815年復位
ナポレオン2世(ナポレオン・フランソワ・ボナパルト、1821年 - 1832年)
ジョゼフ1世(ジョゼフ・ボナパルト、1832年 - 1844年)
ルイ1世(ルイ・ボナパルト、1844年 - 1846年)
ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン・ボナパルト、1846年 - 1852年、1870年 - 1873年) ※1852年 - 1870年在位
ナポレオン4世ウジェーヌ(ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト、1873年 - 1879年)
ナポレオン5世ヴィクトル(ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト、1879年 - 1926年) ナポレオン1世の末弟ジェロームの孫、ナポレオン公
ナポレオン6世ルイ(ルイ・ナポレオン・ボナパルト、1926年 - 1997年) ナポレオン5世の子、ナポレオン公
1997年以降、以下の2人の間で権利が争われている。
ナポレオン7世シャルル(シャルル・ナポレオン・ボナパルト) ナポレオン6世の子、ナポレオン公、元アジャクシオ副市長
ナポレオン7世ジャン=クリストフ(ジャン=クリストフ・ナポレオン・ボナパルト) ナポレオン7世シャルルの子
関連項目
フランス第一帝政