ボディビル(ボディビルディング、英語:bodybuilding)は筋肉繊維をウェイトトレーニング、栄養の摂取そして休養を組み合わせることによって発達させる過程のことである。ボディビルを行う人をボディビルダーと呼ぶ。スポーツとしては「ボディビル競技会(コンテスト)」と呼ばれ、ボディビルダーたちは彼らの肉体(physiques)を審査員に披露し、審査員は審美的造型に基づいて得点をつける。審美的、というのは、胸回りが何センチあるか、と言った尺度ではなく、全体的な形の美しさで審判するという意味である。
有名なボディビルダーには俳優としても活躍したアーノルド・シュワルツェネッガー、ルー・フェリグノ( ⇒en:Lou Ferrigno)などがいる。
目次
1 歴史
1.1 草創期
1.2 黄金時代
1.3 1970年代以後
2 ボディビルと薬物
2.1 薬物の副作用
3 関連項目
3.1 関連語
3.2 選手関係の項目
3.3 関連団体
3.4 ボディビルをしている(いた)著名人
3.5 ボディビルを題材にしたテレビドラマ
4 外部リンク
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アスレチックスポーツとしてのボディビルは11世紀のインドにまで遡ることができる。そこではアスリート達が「ナル」と呼ばれる木の棒の外側に石をくくりつけたダンベルを使用していた。この時代に、ジムのようなものも作られていたという証拠にもなろう。
「筋肉を披露する技芸」としてのボディビルが誕生したのは19世紀末のことである。この時代にボディビル競技を推進したのが「近代ボディビルの父」としばしば評されるドイツ(当時プロシア)出身のユルゲン・サンドウ(ユージン・サンドウとも)である。
サンドウは最初に運動器具(マシンド・ダンベル、スプリング・プーリー、テンション・バンド)を発明・販売したことで有名である。
1901年9月14日にサンドウは初めて、ボディビルコンテストを開いた。そのコンテストは「グレートコンペティション」と呼ばれ、英国、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された。審査員はチャールズ・ロウズ卿とアーサー・コナン・ドイル卿が務めた。コンテストは大成功を収め、勝利者には彫刻家フレデリック・ポメロイによるサンドウを模したトロフィーが与えられた。このトロフィーは1977年からミスターオリンピアの優勝者にも贈呈されている。20世紀初頭、ベルナール・マックファッデンとチャールズ・アトラスがサンドウに引き続いてボディビルの普及を推し進めた。
シンメトリーやディフィニションより、サイズの大きさが優先されて評価されるようになった現代では、1940年から1970年はボディビルの「黄金時代」と回顧されることがある。トレーニング技術が発達し、出版物やコンテストが増加したのもこの時代である。この時代のボディビルは、米国カリフォルニア州のサンタモニカのマッスル・ビーチで、特に盛んであった。人気が高まるにつれ、アマチュア・アスレチック・ユニオン(AAU)が1939年にボディビル競技会を既存のウェイトリフティング競技の一つに加え、翌年にはこの競技会をAAUミスター・アメリカと命名した。しかし、AAUはアマチュア競技者のみを許可し、ウェイトリフティングのオリンピック競技を重視したため、多くのボディビルダーの反発を招いた。これをきっかけに、ベンとジョン・ウィーダー兄弟が国際ボディビル連盟(IFBB)を発足させるに至った。IFBBミスター・アメリカはプロも参加可能なコンテストであった。1950年には全米アマチュアボディビルディング協会 (NABBA) が「NABBAミスター・ユニバース・コンテスト」を英国で開始した。これと双璧をなすミスター・オリンピアの第1回は1965年に開催された。現在ではミスター・オリンピアはボディビル界でもっとも栄誉あるタイトルになっている。 当初はそのコンテストは男性限定であったが、1965年にNABBAはミス・ユニバースをコンテストに加え、1980年にはミス・オリンピアが創設された。
日本においても1955年に当時人気のプロレスとあいまって第一次ボディビルブームが起こり、広くボディビルが普及した。同年10月には「日本ボディビル協会」(現在の日本ボディビル連盟)が発足し、第一回ミスター日本ボディビルコンテストが行われた。1967年にはIFBB世界大会に日本選手を派遣し、日本ボディビルが本格的に国際化する。その後もIFBBやNABBAの国際大会で日本選手が相次いで好成績を収めている。1983年には初の女性ボディビル全国大会である「ミス日本コンテスト」が開催された。
1970年代までに、ボディビルは、アーノルド・シュワルツェネッガーと1977年の映画「パンピング・アイアン」により大きな市民権を獲得するようになった。このときにはIFBBがボディビル界を統括しており、AAUはその後塵を拝した。