ホラズム(ウズベク語 : Xorazm)は、中央アジア西部に位置する歴史的地域。アラビア語ではフワーリズム(?????? Khw?rizm)、ペルシア語ではフワーラズム(?????? Khw?razm)という。
アム川の下流域、アラル海の南岸にあたり、現在はウズベキスタンとトルクメニスタンに分割されている。中心都市はヒヴァで、ヒヴァを中心とする中央部はウズベキスタン共和国のホラズム州となっている。
東をキジルクム砂漠、南をカラクム砂漠に挟まれた乾燥地帯に位置するが、古くからアム川の豊富な水資源を利用した灌漑が行われ、高い農業生産力に支えられたオアシス都市が栄え、遊牧民の中継交易基地として経済的、文化的に進んだ地域であった。
目次
1 古代のホラズム
2 イスラム化とテュルク化
3 ホラズム・シャー朝とモンゴルの支配
4 ヒヴァ・ハン国の時代
5 ホラズムの分割
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ホラズム地方にあたるアム川の下流域は、かつてはアム川がアラル海に注ぎこむ一帯に生まれたデルタ地帯で、古くからイラン語群に属するホラズム語を話す人々によってアム川の豊かな水を利用した灌漑農業が行われてきた。発達した灌漑農業はオアシス都市を発展させ、都市は砂漠を越えた東のトランスオクシアナ(アム川中流域右岸、現ウズベキスタン中央部)、南のホラーサーン(トルクメニスタンからイラン北東部)などのイラン世界東方と、アラル海の向こうのヴォルガ川流域方面とをつなぐ遠隔地交易の中継地として栄えた。この時代のホラズムには、イラン系の言語で「ホラズム王」を意味するホラズム・シャーの称号をもった君主がいたようである。
ホラズムは、8世紀にアラブ人によって征服され、9世紀頃にはイスラム教を受容、ムスリム(イスラム教徒)たちの残した記録からはっきりとした歴史がわかるようになる。
ホラズムがイスラム化すると紀元前以来のイラン文明とイスラム文明が結びつき、当時のイスラム世界の高い学術水準の中でも最高峰を誇るフワーリズミー、ビールーニーなど大学者を輩出した。
一方イスラム化を経ても、テュルク系遊牧民が盛んに訪れるホラズムは遠隔地交易の中継地としての性格を依然として保ち、アム川右岸のカースを中心としてホラズム・シャーを称する土着イラン系の王朝アフリーグ朝による支配が行われていたことが知られる。10世紀にはアム川左岸のウルゲンチを支配する土着君主マームーン朝が強大化してアフリーグ朝を併合し、かわってホラズム・シャーの称号を名乗るようになった。
11世紀になると、南のホラーサーン地方から勢力を拡大したガズナ朝による支配を受けるようになり、ガズナ朝に派遣されたテュルク系マムルーク出身の総督がホラズム・シャーを称した。1042年にはガズナ朝にかわってホラーサーンを制覇したセルジューク朝によって併合され、今度はセルジューク朝の派遣したテュルク系の総督が支配者となる。
相次ぐテュルク系王朝の支配により、もともとテュルク系遊牧民の往来の激しかったホラズム地方は次第に言語的にテュルク化してゆき、住民のほとんどがテュルク語の話者となっていった。
1077年、セルジューク朝のマムルーク出身の将軍アヌーシュテギーンがホラズム総督に任命されるが、やがてその家系がホラズムの世襲支配を強め、12世紀にはホラズム・シャーを自称してセルジューク朝から自立していった。このイスラム王朝としては4つめとなるホラズム・シャーの王統を、ふつうホラズム・シャー朝と呼んでいる。
12世紀を通じてホラーサーンからイランへと勢力を拡大していったホラズム・シャー朝は、13世紀初頭のアラーウッディーン・ムハンマドのときゴール朝を滅ぼし、カラキタイ(西遼)を破って中央アジアからイランに至る最大版図を実現したが、1219年に始まるモンゴル帝国のチンギス・ハーンの攻撃により瓦解した。ホラズムはマーワラーアンナフルからアム川を沿って侵入してきたモンゴル軍によって甚大な被害を受け、最後まで抵抗を続けて1222年春に陥落した首都ウルゲンチは徹底的に破壊された。
1231年には旧市の傍にウルゲンチが再建され、モンゴル帝国のもとで早々にホラズムの復興が始まった。第4代大ハーン、モンケの死後に起こったモンゴル帝国の騒乱で中央アジアの領土が西方の諸王家によって分割されると、チンギス・ハーンの長男ジョチ一門のウルス(所領)の領有に帰した。ホラズム地方は、以後ジョチ・ウルスと、イラン・ホラーサーンを支配するフレグ一門のウルス、イルハン朝との間で争奪されるが、バトゥ家のジョチ・ウルス歴代ハンと親族関係にある有力部族コンギラトが守るホラズムはジョチ・ウルスの陣営に保たれた。
14世紀中頃にバトゥ家が断絶しジョチ・ウルスが内紛状態に陥ると、ホラズムのコンギラト部族は自立してスーフィー朝を興すが、1380年にティムールによって征服された。