ホラズム・シャー朝(ペルシア語 : ?????? ??? Khw?razm Sh?h)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。
ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。
目次
1 歴史
1.1 建国から拡大の時代
1.2 大帝国の建設と崩壊
1.3 ジャラールッディーンの抵抗と再興
2 歴代君主
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ホラズム・シャー朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク(奴隷軍人)、アヌーシュテギーンが、1077年にその30年ほど前まではガズナ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする。アヌーシュテギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。
ムハンマドの死後、ホラズム・シャーの位を世襲したアトスズは、1135年頃にセルジューク朝から自立の構えを見せた。しかし、1138年ホラズムの南のホラーサーンを根拠地として権勢を振るったセルジューク朝のサンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。1141年、中央アジアに侵入したカラキタイ(西遼)にサンジャルが敗れると再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。1157年、サンジャルの死をもってホラーサーンのセルジューク朝政権が解体すると、ホラズム・シャーは再び自立を果たすが、今度はセルジューク朝にかわって中央アジアに勢力を広げたカラ・キタイへと時に服属せねばならなかった。
1172年よりホラズム・シャーのスルターン・シャーと、その異母兄テキシュの間で王位争いが起こり、兄に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターンシャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターンシャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。テキシュの治世にホラズム・シャー朝はイランへの拡大を開始し、1194年には中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。1197年、テキシュはアッバース朝のカリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。
もともとホラズム・シャーはマムルークの出身で部族的繋がりを持たないものの、王朝の軍事力はホラズム周辺のテュルク系遊牧民に大きく依存しており、テキシュの覇権にはアラル海北方のテュルク系遊牧民カンクリやキプチャクの力が大きな役割を果たした。テキシュの妻のひとりはカンクリの出身であり、彼女の生んだ王子ムハンマド(アラーウッディーン)が1200年にテキシュの後を継いで第7代スルターンに即位する。
テキシュの子アラーウッディーン・ムハンマドの治世に、ホラズム・シャー朝は最盛期を迎えた。アラーウッディーンはホラーサーンに侵入したゴール朝を撃退したうえ、ゴール朝のホラーサーンにおける拠点都市ヘラートをかえって奪った。1210年にはスィル川を渡ってキタイ人を破り、1212年にカラキタイの宗主権下で辛うじて存続していた西カラハン朝を完全に滅ぼしてアム川とスィル川の間に広がるトランスオクシアナを勢力下に置いた。
さらにはギヤースッディーン・シハーブッディーン兄弟の死後急速に分裂し始めたゴール朝を打ち破って現在のアフガニスタン中央部までほとんどを征服、1215年にゴール朝を滅ぼした。1217年にはイラクに遠征してアッバース朝に圧迫を加え、ファールスやアゼルバイジャンのアタベク政権を破ってイランのほとんど全域を屈服させるに至り、ホラズム・シャー朝の勢力は中央アジアから西アジアまで広がる大帝国へと発展した。
しかし、ホラズム・シャー朝の没落もまた、アラーウッディーンの時代に劇的に進むこととなった。ホラズム・シャー朝が最大版図を達成したのと同じ頃、モンゴル帝国がカラキタイの政権を奪ったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、ホラズム・シャー朝と中央アジアで境を接するようになっていた。アラーウッディーンはモンゴル帝国のチンギス・ハーンと誼を通じていたが、1218年にスィル川河畔のオトラルで、ホラズム・シャー朝のオトラル総督が、モンゴルの派遣した商業使節が中央アジア侵攻のための密偵であると疑い、一行450人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった。