ベトナムに平和を!市民連合
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ベトナムに平和を!市民連合(ベトナムにへいわを!しみんれんごう)は、日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。略称は「ベ平連(ベへいれん)」。運動団体といっても規約も会員名簿もなく、何らかの形で平和運動に参加した人や団体を「ベ平連」と呼んだ。
目次

1 概要

1.1 発足

1.2 市民運動

1.3 主な活動

1.3.1 デモと「反戦広告」

1.3.2 「良心的脱走兵」の逃走支援



2 ソ連からの支援

2.1 JATECによる非合法活動

2.2 KGBからの援助


3 その他の話題

4 参考文献

5 脚注

6 関連項目

7 外部リンク

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概要


発足

1965年2月7日に開始されたアメリカ軍による北ベトナムへのいわゆる「北爆」など、アメリカのベトナム戦争に対する軍事介入を受けて、哲学者鶴見俊輔や政治学者の高畠通敏が、作家小田実を代表に担ぎ出して1965年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の名で発足させたのが始まりである。同年、久保圭之介に代わり吉川勇一が事務局長になる。

なお、アメリカによるベトナムへの本格軍事介入自体は、ジョン・F・ケネディ大統領によって「南ベトナム軍への軍事顧問団の派遣」という形で1960年代初頭から行われていたが、マスコミの報道があまり行われていなかったこの頃には、主だった反戦運動は行われていなかった。

その後1966年10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更し、全国に活動が広がって行った。1974年1月に、パリ協定調印後のアメリカ軍のベトナムからの全面撤退を受け解散した。


市民運動

既存政党とは一線を画した無党派の市民・反戦平和運動である。基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則で、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、学生から社会人や主婦など、職業や社会的地位、保革などの政治的主張を問わず、多くの参加者を呼び寄せる事になった。

なお、ベトナム戦争に反対し、アメリカ軍の軍事介入に反対・抗議する事を主な目的に発足した事もあり、当初から反米的な要素が含まれていたのも事実であり、実際に、一方の当事者である北ベトナム南ベトナム解放民族戦線による戦争行為や南ベトナム市民に対するテロに対しての抗議活動は行わなかった(もっとも、北ベトナムに同情的な当時の日本ではこれら「北ベトナムや解放戦線のテロ」に対するマスコミの報道がほとんどなされていなかったのも事実である)。


主な活動


デモと「反戦広告」

1965年4月に東京駐日アメリカ合衆国大使館へのデモ行進を行ったのを始まりに多くのデモを行ったほか、同年11月には作家の開高健の発案でアメリカ紙ニューヨーク・タイムズへ全面での「反戦広告」を掲載、1967年4月には画家岡本太郎・筆の「殺すな」と大書された文字の下に英文のメッセージをデザインした反戦広告をワシントン・ポストに掲載するなど、その活動も既成の市民運動の枠を大きく超えたものであった。

アメリカ国内の反戦運動団体とも連帯を形作ったが、上記の「反戦広告」に対しては、その殆どが手弁当で活動を行っているアメリカの反戦運動団体から、新聞に全面広告を出せるほどの膨大な資金を一反戦運動が運営していることへの驚きと疑念が持たれたが、これについては、ソビエト連邦から活動資金を調達していたことが冷戦崩壊後に判明(後述)する。


「良心的脱走兵」の逃走支援

また小田らはアメリカ軍の「良心的脱走兵」の逃走支援も行い、これらの活動はベ平連とは別にJATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs―反戦脱走米兵援助日本技術委員会)として運営された。

1967年に、航空母艦「イントレビット」からの4人の脱走兵を、横浜港でソ連の定期船に乗船させ、モスクワ経由でスウェーデンに入国させたことから、「イントレビット4人の会」が結成され、さらに脱走を援助する組織として「JATEC」が武藤一羊により命名された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki