プロイセン(ドイツ語:Preusen、ポーランド語:Prusy、リトアニア語:Pr?sija)はバルト海南東岸の地域。英語名Prussiaに基づくプロシア(普魯西)、プロシャや、普語名Pruqsasに基づくプルーサスの名称も用いられる。
目次
1 領域・由来
2 キリスト教伝来
3 ドイツ騎士団とポーランド王国
4 ドイツ騎士団領からプロイセン公領、そしてプロイセン公国へ
5 プロイセン王国
6 解消
7 現在のプロイセン
8 歴代プロイセン公
9 脚注
10 関連項目
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領域・由来ドイツ帝国(1871年 - 1918年)の東プロイセン(赤)の範囲。藍色はプロイセン王国の範囲
プロイセン地方の領域は西側はポメラニア(ポーランド名ポモージェ、ドイツ名ポンメルン)でドイツに接し、東はネマン川(ドイツ名メーメル川)を境にポーランドとリトアニアに隣接、ヴィスワ川(ドイツ名ヴァイクセル川)で東プロイセンと西プロイセンに分けられる。東プロイセンの中央には東西にプレゴリャ川(ドイツ名プレーゲル川)が流れ、その河口に中心都市カリーニングラード(ケーニヒスベルク)がある。プロイセンの住民のほとんどは第二次世界大戦後に逃亡したり追放されたりしてドイツに移住し、領域はロシアとポーランドに分割されたため現在ではプロイセンという地域名は使われていない。
プロイセンという名前は、プルーセン人またはプルッツェン人として知られるヴィスワ河口付近に居住した先住民に由来する。民族大移動以降はソルヴ人やカシューブ人のようなスラヴ系諸民族も移住してきた。またもう一つの説では、ロシアあるいはルーシの近くを「プロシア」と呼んだことから来ているとも言われている。
キリスト教伝来グニェズノ大聖堂にある聖アーダルベルト(聖ヴォイチェフ)の墓所
977年プラハのアーダルベルト司教(聖アーダルベルトまたは聖ヴォイチェフと呼ばれる)によってこの地域にキリスト教が伝えられたがプルーセン人は服さず、アーダルベルト司教は997年4月23日斧で打ち殺された。ピャスト家のポーランド大公ミェシュコ1世とその子でポーランド王国初代国王ボレスワフ1世は神聖ローマ皇帝オットー1世やその後継者たちと封建的主従関係を結んだことによりオーデル川(オドラ川)以東の支配権を得たが、プロイセンはその後も長くキリスト教化されなかった。アーダルベルトの遺体はボレスワフ1世がプルーセン人に大金を支払って買い取り、当時のポーランド王国首都ポズナニの郊外の街グニェズノに設置されたポーランド大司教座の大聖堂内の礼拝所に安置された(アーダルベルト司教は故郷のプラハ貴族層と折り合いが悪く、そのためにプラハを離れたのであるが、のちにプラハの貴族たちがポーランド王国に対し遺体の「返還」を要求してきた。当時のポーランド王は心の中ではプラハの貴族たちの要求に呆れ返っていたが、表面上は快く応じ、別人の遺体を聖アーダルベルトのものだとしてプラハに渡した。そのためグニェズノにあるアーダルベルトの墓所とプラハにあるアーダルベルトの墓所の2か所に、アーダルベルトのものとされる頭蓋骨が合計2個あり、グニェズノのものが本物だとされている)。
ドイツ騎士団とポーランド王国ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァの像
(マルボルク城)
1217年ころ、マゾフシェ侯コンラート1世は異教徒プルーセン人の平定と教化を企てたが、ローマ教皇の呼びかけにも周辺の諸侯は応じず、クルムラントの領有権と引き換えに協力を申し出たのは当時ハンガリーにいたドイツ騎士団であった。1226年には総長ヘルマン・フォン・ザルツァに率いられたドイツ騎士団による北への遠征が始まる。この征服戦争は北方十字軍とも呼ばれ、改宗に応じない先住民は容赦なく殺戮されるという凄惨なものだった。