ライン宮中伯( - きゅうちゅうはく)は、神聖ローマ帝国の諸侯。ドイツ西部のライン地方を支配した。また、選帝侯のひとりとして国王選出権その他の特権を有した。別名プファルツ(ファルツ)選帝侯(Kurpfalz)、プファルツ(ファルツ)伯(Pfalzgraf)。
目次
1 名称に関して
2 歴史
2.1 ヴィッテルスバッハ以前
2.2 ヴィッテルスバッハ家のライン宮中伯
2.3 選帝侯位消滅後のプファルツ
3 歴代領主一覧
3.1 ロートリンゲン宮中伯
3.1.1 エッツォーネン家
3.2 ライン宮中伯
3.2.1 マイフェルトガウ伯家
3.2.2 アスカニア家
3.2.3 カルヴ家
3.2.4 アスカニア家
3.2.5 バーベンベルク家
3.2.6 シュターレック家
3.2.7 シュタウフェン朝
3.2.8 ヴェルフェン家
3.2.9 ヴィッテルスバッハ家
3.2.9.1 プファルツ=ズィンメルン家系
3.2.9.2 プファルツ=ノイブルク家系
3.2.9.3 プファルツ=ズルツバッハ家系
3.2.9.4 プファルツ=ツヴァイブリュッケン家系
4 関連項目
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ライン宮中伯は時代によって、また人によって、様々な呼ばれ方をしている。定訳がないのではなく、そもそも定まった名称がない。
恐らく本来の名前はロートリンゲン宮中伯であった。宮中伯は皇帝によって各地に置かれた、いわば大諸侯の監視役である。ロートリンゲン宮中伯は10世紀初め頃にライン川沿いのザリエル家領がビドガウ伯のヴィゲリックという貴族に与えられて始まった。
しかしやがてその支配権は縮小し、ライン川中流域の両岸に限られるようになった。このため、11世紀末頃からはライン宮中伯の名で呼ばれるようになる。
一方、各地に置かれた宮中伯たちは、13世紀半ば頃にはライン宮中伯を除いて他の諸侯に併呑されて姿を消した。このため、単に「宮中伯」(Pfalzgraf)といえばライン宮中伯のことを指すようになる。また、同時にその領域も「プファルツ」(ファルツ)と呼ばれるようになっていった。Pfalzgrafを「プファルツ伯(またはファルツ伯)」と訳すこともあるが、「プファルツ」が地名化したため、「プファルツという土地の伯」と解されたためであろう。しかしプファルツは本来地名ではないのだから、この訳は厳密には誤りである。
ライン宮中伯は選帝侯となり、その権利は1356年の金印勅書で明文化された。このため、「宮中(伯)」を表すPfalzという言葉に「選帝侯」(Kurf?rst)あるいはそれを表す接頭辞Kur-をつけて、Kurf?rst von der PfalzもしくはKurpfalzと呼ばれるようになった。従って「宮中伯選帝侯」という意味であるが、日本語では「プファルツ(ファルツ)選帝侯」と訳すのが通例となっている。
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1214年、ヴェルフェン家のハインリヒ5世の死去により、ライン宮中伯のヴェルフェン家は断絶、ヴィッテルスバッハ家のオットー2世に譲渡された。オットー2世は後に父親からバイエルン公位を相続している。その後の継承はややこしいが、結局オットー2世の長男ルートヴィヒ2世の長男アドルフの子孫がライン宮中伯位と選帝権を保持することとなった。
宗教改革においてライン宮中伯はカルヴァン派を支持、1608年にはプロテスタント諸侯を糾合して新教連合を結成、1619年にはカトリックのハプスブルク家の支配を嫌うプロテスタントのボヘミア貴族からライン宮中伯フリードリヒ5世がボヘミア王に選出された。