フルロ(FULRO, Front Unifie pour la Lutte des Races Opprimes, 被制圧民族闘争統一戦線)は、ベトナムの少数民族による反政府組織。1992年に解散している。
目次
1 概説
2 要求
3 経緯
3.1 フルロの結成
3.2 ベトナム戦争の終結後
3.3 衰退
3.4 解散
4 関連項目
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ベトナムはキン族(京族)が人口の9割を超えるが、山間部や高原地帯にはジャライ族( ⇒Jarai)、エデ族( ⇒E De)など少数民族が多く暮らしている。フルロは、これら少数民族が集中している中部高原地方にて少数民族の自治運動として1964年に結成された。中部高原地方は、かつてチャンパ、ラオス、カンボジアなどが領有権(宗主権)を主張していた地域であったため、ベトナムに対する帰属意識は薄い傾向にあった。これがフルロの独立運動を盛り上げることになる。
フルロは、少数民族の権利として高度な自治権を有する連邦制の導入や土地所有権の承認、政治参加の機会拡大、ひいては南北ベトナムからの独立を要求した。
第二次世界大戦以降、独立を達成したベトナムは、近代国家建設のために国民の団結を目的として国内の少数民族に対して同化政策を推進していったが、少数民族の反発を招く。このため、少数民族出身の軍人や役人など有力者が集まり、自治権を要求していた。1950年代後半から彼らと自治を認めない政府との間で武力衝突が増え、やがて当時のベトナム労働党がこの争いに介入したことで、少数民族は民族自治区の設置を主張していた南ベトナム解放民族戦線へ参加することになる。
これに対し、反共主義で少数民族を結束しようとする動きが発生した。その結果カンボジアのロン・ノル政権によって発足したのがフルロである。少数民族は歴史的な対立とゴ・ジン・ジェム政権に弾圧された経緯からキン族の南ベトナム政府とは反目していた。またフルロが南北ベトナムからの分離を主張していることもあり、同じ反共であっても二者を統合する事は困難で、ここにカンボジアの介入する余地が生まれた。 しかしながら、キン族将校とフルロ将兵との民族的反目は根深く、1964年9月と1965年7月?12月にかけて、フルロは複数省にわたる南ベトナム軍基地で大規模な反乱を起こした。また武器の持ち逃げや上官殺害、集団脱走なども頻繁に行われた。南ベトナム政府はフルロとの妥協も模索しており、1968年2月、一時的な和解が成立している。しかし、一部の強硬派は和解を不服として武力闘争を継続したため、本格的な共同戦線が張られることはなかった。
ベトナム戦争の終結後、南北統一されたベトナムでは期待されていた民族自治区は設置されず、逆に少数民族が暮らしていた地域に「新経済区」が設置され、ベトナムの大多数派であるキン族が大量に流入し土地の所有権で少数民族との軋轢を起こした。これはフルロだけでなく一般の少数民族の間にも反発が強まる結果となった。この不満は、フルロが政府に対して武力闘争を継続する基盤となった。
統一が成され社会基盤を整えていくベトナム政府に対してフルロはやがて劣勢となっていき、カンボジア領のジャングルに拠点を移すことになる。
中ソ対立の影響もあってソ連と親しいベトナムは、親中派であるカンボジアのポル・ポト派(クメール・ルージュ)とも対立していた。一時、フルロはそのポル・ポト派との接触を図っていた。しかし1990年6月、東京での「カンボジア和平東京会議」及び1991年10月の「カンボジア和平パリ国際会議」によってカンボジア内戦が終結したことで、カンボジア側にとって「外国の武装勢力」であるフルロは国連暫定統治機構(UNTAC)によってベトナムに送還されることになる。一部はそれでもカンボジア内に潜伏し続けたが、カンボジアの特殊部隊に攻撃された。
武力抵抗も困難になったフルロは結局、1992年10月10日、UNTACに武器を引き渡して投降した。これによってフルロは解散し、事実上の難民として約400人がアメリカに移住することになった。 アメリカにはベトナム共和国出身者によるいくつかの反共産主義組織が存在するが、今なお南ベトナム時代の対立を解消できておらず、1960年代に南ベトナムからの独立を企てた少数民族組織フルロ(FULRO)関係者はこれらの組織とは対立関係にある。
関連項目
ベトナム人
ベトナムの民族
カテゴリ: ベトナムの歴史 | カンボジアの歴史 | ベトナム戦争 | テロリズム | 民族解放運動
更新日時:2008年8月3日(日)09:22
取得日時:2008/09/22 15:24