フランスにおける第三共和政(だいさんきょうわせい, Troisi?me R?publique)は、普仏戦争の前後に成立し、1940年のナチス・ドイツによるパリ占領まで存続した政体である。
前史時代
ガリア
フランク王国
メロヴィング朝 (481?751)
カロリング朝 (751?987)
カペー朝 (987?1328)
ヴァロワ朝 (1328?1589)
ブルボン朝 (1589?1792)
フランス革命
第一共和政 (1792?1804)
国民公会 (1792?1795)
総裁政府 (1795?1799)
執政政府 (1799?1804)
第一帝政 (1804?1814)
復古王政 (1814?1830)
七月王政 (1830?1848)
第二共和政 (1848?1852)
第二帝政 (1852?1870)
第三共和政 (1870?1940)
自由フランス (1940?1944)
ヴィシー政権 (1940?1944)
第四共和政 (1946?1958)
第五共和政 (1958? )分野別
歴史的州
植民地の歴史
フランス文化
フランス史年表
目次
1 歴史
1.1 普仏戦争とパリ・コミューン
1.2 第三共和国憲法の成立
1.3 植民地拡大とフランス外交
1.4 軍部の台頭と共和主義の危機
1.5 ベル・エポック
1.6 第一次世界大戦
1.7 戦間期
1.8 終焉
2 主要年表
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普仏戦争中の1870年9月2日、ナポレオン3世はスダンで捕らえられて捕虜となった。これを受けてパリで蜂起が発生し、9月4日にトロシュ将軍を首班として国防政府(臨時政府)が成立した。国防政府はドイツとの戦争を継続する姿勢をとり、プロイセン軍によるパリ包囲後も内相ガンベッタは気球で脱出し、地方で国民軍を組織するなどして抵抗を続けた。だが一方で穏健派は敗勢濃厚となる中で、1月末にはドイツとの講和を模索した。国民議会選挙が1871年2月に行われ、ボルドーで国民議会が開催されると、ティエールが新政府の指導者となり、2月26日にドイツに対してアルザス・ロレーヌの割譲と50億フランの賠償支払いを認めた。(1871年5月のフランクフルト講和条約で正式に確認された。)コミューンの抵抗
こうした政府の弱腰な姿勢と、3月にドイツ軍がパリを占領したことは、パリ市民の憤激を招いた。そして、ついに武装解除を図る新政府と衝突し、独自の議会選挙を行ってパリ・コミューンの成立が宣言された。コミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素が含まれており、晩年のカール・マルクスなどがこれを高く評価したが、実際には「社会主義政権」と評価できるほどの政策もさほど見られず、あまりにも統治期間が短すぎた。また、内部対立を収拾することもできず、5月には新政府によって鎮圧された。この際、コミューン参加者の多くが処刑された。
パリ・コミューンの鎮圧は、多くのフランス国民にとっては政治的安定をもたらすものとして受け入れられた。8月にティエールは大統領に就任するが、まだこの段階でも王政復古を主張する勢力も存在し、政体の行方は定まらなかった。ティエール本人は共和政を支持したが、この姿勢を鮮明にすると王党派が離反し、1873年に国民議会によってティエールは大統領職から解任された。こうして新たに大統領になったマクマオン、首相のブロイ公ともに王党派の立場をとっていたが、議会では共和派が勢力を伸ばしており王政復古を牽制していた。
1875年に憲法が制定され、上院(元老院)と下院(代議院、普通選挙による)による二院制がとられた。また、共和国大統領が両院による多数決で選出されることが定められた。1876年1月に第三共和国憲法に従い選挙が行われると、上院では王党派、下院では共和派が優勢になった。こうした中、王党派の立場をとる大統領のマクマオンは、穏健共和派を首相に選ばざるをえなかった。その後、大統領と下院の対立が深まると議会を解散させて再選挙を実施したが、共和派の勢力が衰えることはなかった。