フランシスコ・フランコ・バハモンデ
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同名の孫については「フランシスコ・フランコ (第11代ビリャベルデ侯爵)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はフランコ、第二姓(母方の)はバアモンデです。

フランシスコ・フランコ・バアモンデ
Francisco Franco Bahamonde


スペイン国
初代 総統
任期1936年10月1日1975年11月20日
スペイン国
初代 首相
任期1938年1月30日1973年6月8日

出生1892年12月4日
スペイン王国
ラ・コルーニャ県 フェロル
死去 (1975-11-20) 1975年11月20日(82歳没)
スペイン マドリード
政党ファランヘ党
配偶者カルメン・ポロ
子女カルメン・フランコ
署名

フランシスコ・フランコ・バアモンデ(Francisco Franco Bahamonde、IPA : [f?an'θisko 'f?a?ko]、1892年12月4日 - 1975年11月20日)は、スペイン軍人大元帥)、政治家。1936年から1975年まで[1]長期独裁を敷いたことで知られる[2]
生涯
軍人として

フランコは、スペイン北西部ガリシア地方エル・フェロルで生まれた。エル・フェロルは海軍基地のある町で、父も祖父も海軍の軍人であった[3]。出生時の洗礼名はフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ・フランコ・バアモンデ・サルガード=アラウホ・イ・パルド・デ・ラマ(Francisco Paulino Hermenegildo Teodulo Franco Bahamonde Salgado-Araujo y Pardo de Lama)[4]。彼は5人の兄弟の二男で、兄ニコラス(スペイン語版)、妹二人(ピラール(スペイン語版)、マリア・デ・ラ・パス)、弟ラモンがいた。祖父と父は海軍主計准将までなっている[5]。母を人生の師としていた。フランコもバアモンデもスペインでは一般にユダヤ系の姓であり、フランコをユダヤ系と見なす向きもある[6]

父や祖父と同じ海軍を志望していたが、軍縮で海軍が募集を中止したため、1907年にトレド陸軍歩兵士官学校に入学した。1910年に卒業すると少尉となった[7]。1912年にはモロッコに着任した[8]スペイン領モロッコでは原住民の反乱が頻発していた[9]。フランコはここで順調に昇進し[10]、1926年には准将となった。33歳の将官は、当時の欧州では最年少であった[11]。1934年にアストゥリアス地方で革命運動が起きると、フランコはモロッコ駐留軍も投入して鎮圧した[12]。その翌年の1935年には陸軍参謀総長となった[13]
スペイン内戦詳細は「スペイン内戦」を参照

1936年2月の選挙で左派が辛勝、フランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島司令官に左遷された[14]。人民戦線政府は社会主義的理念に基づく改革を実行、教会財産を没収し、ブルジョワに対する締め付けを強めた。これは農民労働者層に支持されたが、地主資本家カトリック教会などの保守勢力や知識層とは対立した。

同年7月にモロッコで駐留軍が決起、フランコは同地に飛んで指揮権を掌握し[15]、モロッコ部隊を本土に輸送した[16]。この反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展した。人民戦線政府により反乱軍(Bando sublevado)と呼ばれた勢力(「国民軍(英語版)」 Bando nacional を自称した)の中心人物は当初ホセ・サンフルホ(スペイン語版、英語版)将軍やエミリオ・モラ(スペイン語版、英語版)将軍などであり、フランコは反乱側の一指揮官でしかなかった。ホセ・サンフルホが1936年に飛行機事故で死亡し、緒戦で反乱軍は敗北を重ねるなど長期化の様相を見せ始めると、戦功のあるフランコと、戦前から人望が高かったモラが反乱側の人気を二分するようになる。その後モラも飛行機の墜落事故で死亡すると、フランコが反乱軍の指導者としての地位を固めた。
総統就任

1936年10月1日、ブルゴスにおいて反乱軍の総司令官に指名され、(一方的な)国家元首に就任した。その際フランコは、軍総司令官として大元帥(Generalisimo、総帥とも訳される。軍における最終階級は陸海空元帥(英語版))、国家元首としてカウディーリョ・デ・エスパーニャ(Caudillo de Espana、以下総統)の称号を用いた。また、仮政府として「国家行政委員会」を設置、1938年1月30日にこれを改組して正式に内閣制度を導入、そのトップとなった。
スペイン統一総統たるフランコの紋章

その後、フランコはドイツイタリアポルトガル[17]の支援を受けて、共和派勢力と戦った。


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