ピッグス湾事件(ピッグスわんじけん、西:Invasion de Bahia de Cochinos、英:Bay of Pigs Invasion)とは、1961年に亡命キューバ人達が結成したゲリラ「反革命傭兵軍」がアメリカの支援をもとに革命政権の再転覆を試みた事件のことである。スペイン語での正式な地名を用いてプラヤ・ヒロン侵攻事件とも言う。
目次
1 概要
1.1 国交断絶
1.2 ケネディ大統領就任
1.3 作戦実行
1.4 失敗
1.5 失敗の原因
2 事件後
3 事件を扱った作品
4 関連項目
5 外部リンク
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1959年1月に発生したキューバ革命により、アメリカは共産主義国家の脅威を間近で実感する事態となった(その懸念は当時、妄想に近いものと評されることもあったが、1962年に実際の脅威としてキューバ危機が起こり、皮肉にもアメリカ政府の予測が正しかったことが証明された)。
キューバ革命により、アメリカが支援していたキューバの指導者フルヘンシオ・バティスタは権力の座を追われ、代わりにフィデル・カストロがゲリラ軍を率いてクーデターを起こし、権力を手中にした。カストロは当初はアメリカに対しても友好関係を保つとしたものの、CIAの報告により「共産主義者」との疑いをもたれていた上に、バティスタとの癒着によってキューバに多くの利権を持っていたアメリカの大企業やマフィアからのプレッシャーを受けたドワイト・D・アイゼンハワー大統領はこれを拒否し、カストロ政権を認めるには至らなかった。
1960年6月、カストロはアメリカ資産の国有化を開始するとともに、弟のラウル(ラウロ・カストロ)にソ連の首都のモスクワを訪問させ、ソ連首相のアナスタス・ミコヤンをハバナに招請し、ソ連との接近を始めた。これに対してアイゼンハワー政権はキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置をとりキューバに対して経済制裁に踏みきり、1961年1月3日には対キューバ国交断絶に至った。この間、大量のキューバからの避難民がフロリダ州マイアミに集まり、その数は10万人に達した。
これに先立つ1960年3月に、カストロのソ連への接近を憂慮したCIAとアイゼンハワーはカストロ政権転覆計画を秘密裏にスタートさせ、万一の場合に備え、母国を脱出してきた亡命者1,500人を組織化しグアテマラの基地でゲリラ戦の訓練を与えており、この部隊に軍事援助と資金協力をして解放軍を結成する許可を与え(反革命傭兵軍)キューバ上陸作戦を敢行させることとした。退任間近だったアイゼンハワーはこの時点でキューバ問題から手を引き、その後は副大統領のリチャード・ニクソンやアレン・ダレスCIA長官らに委ねられた。
その間、作戦は当初のゲリラ戦から通常戦に変更する決定が下された。そして兵員数、物資で圧倒的に劣る亡命キューバ人部隊がカストロ軍に打ち勝つために、アメリカ軍の正規軍の介入が計画に組み入れられた。この時点で大統領選挙が行われ、1961年1月20日に民主党選出のジョン・F・ケネディが大統領に就任することが決まった。
就任したばかりのケネディ大統領は、当初ソ連との宥和政策を目指していたこともありこの作戦の実行には反対だったが、結局閣僚やCIAのアレン・ダレス長官らに説得され作戦の実行を決意した。しかしこの際にケネディが上陸地点を変更するよう迫った為に作戦に混乱を与えた上に、CIAが作戦失敗のリスクを過小評価して報告していたことが後日明らかになっている。
いずれにしてもケネディ大統領は作戦を敢行させ、亡命キューバ人部隊は、1961年4月15日に国籍を隠したアメリカ軍のダグラスB-26爆撃機によりキューバ軍基地を空襲し、キューバ軍の爆撃機を破壊し、続いて17日にキューバのコチーノス湾(アメリカ側の呼称はピッグズ湾、「コチーノ」、「ピッグ」共に豚の意)に上陸を開始した。
上陸した亡命キューバ人部隊は初戦こそキューバ軍と渡り合ったが、キューバ軍が約20万人で迎え撃ったにもかかわらず亡命キューバ人部隊は2000人以下にすぎず、その上に2隻の物資補給船がキューバ軍の戦闘機に撃沈されるなど補給経路が早々に破壊された上、期待されていたアメリカ正規軍による空爆がケネディ大統領の命令により実行されなかった等の理由により部隊は壊滅した。
その後、考えを変えたケネディ大統領の命令によりアメリカ軍の戦闘機による爆撃機への援護が実施されたものの、時差を計算していなかったなどの連絡ミスにより援護が失敗し爆撃機が撃墜されるなどした結果、90人が戦死、1200人が捕虜となる他多数が逃亡するなど作戦は大失敗に終わった。