ビル・ラッセル
名前
本名William Felton Russell
カタカナビル・ラッセル
ラテン文字表記Bill Russell
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
誕生日1934年2月12日
出身地ルイジアナ州・モンロー
身長208cm
体重102kg
選手情報
在籍チームボストン・セルティックス(引退)
ポジションセンター
背番号6(永久欠番)
■Template(■ノート ■使用法)■バスケットボールpj
オリンピック
男子 バスケットボール
金1956バスケットボール
ウィリアム・フェルトン・ラッセル(William Felton "Bill" Russell、1934年2月12日-)は、ルイジアナ州モンロー出身のNBAの元バスケットボール選手で元コーチ。所属したボストン・セルティックスを11回の優勝に導いた。ディフェンスの側面で競技に革新的な影響をもたらし、バスケットボールの歴史上最も偉大な選手の一人と考えられている。
目次
1 プロ入り以前
2 現役時代
2.1 入団
2.2 「ボストン王朝」の時代
2.3 選手としての総括と業績
3 監督歴
4 その他
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9歳の時に家族とともに故郷のルイジアナ州からカリフォルニア州オークランドに移り、そこでバスケットボールを始める。
高校時代には4年生になるまでチームの先発メンバーにはならなかったが、カリフォルニア州を代表する高校選手の一人に選ばれるまでになる。結果、サンフランシスコ大学でバスケットボール選手として奨学金を得ることが決まり、同大学に進学した。
大学でラッセルは大いに活躍し、1955年と1956年の2年連続NCAA優勝の他に公式戦55連勝という素晴らしい記録を打ち立てた。1955年には、トーナメントの最優秀選手に選ばれている。大学時代のチームメートには、のちにプロ時代の同僚になるK・C・ジョーンズもいた。
1956年にボストン・セルティックスに入団。この年、セルティックスは通常のドラフト指名権を放棄して地域ドラフトでトム・ハインゾーンを獲得することを考えていたが、ラッセルも是非ともほしい選手だった。そこで、チームの監督兼ジェネラル・マネージャーだったレッド・アワーバックは、セントルイス・ホークスに取り引きを持ちかけた。ホークスがドラフト第2位でラッセルを指名し、セルティックスが二人の選手とトレードしてラッセルを獲得するという交換条件は成立した。
ラッセルは1956-57シーズン開幕時に、バスケットボール米国代表としてメルボルンオリンピックに参加し、金メダルを獲得する。以後ラッセルは、このシーズン遅れてチームに合流して以来、1969年に引退するまでの13年の選手生命をセルティックスで過ごした。
ラッセルが加わった当時のセルティックスでは、毎年アシスト王になっていたボブ・クージー、このシーズンの新人王になったトム・ハインゾーン、チームで得点首位のビル・シャーマンなど、将来殿堂入りする選手がチームの中心メンバーとなっていた。試合中には、ラッセルのリバウンドからクージーにボールが渡り、速攻により得点が決まるという攻撃がよく見られた。速攻はこの時期のセルティックスの特徴で、ラッセルのリバウンド力を活かしたオフェンスのスタイルだった。1956-57シーズンのラッセルは、新人ながら平均リバウンド数19.6を上げ、リーグ最高を記録している。
ラッセルが在籍中の13年間にセルティックスは1958年と1967年を除く全ての年に優勝している。NBAのチーム数は、ラッセルが新人だった1956年には8、引退した1969年には14と、現在の30よりも少なかったが、セルティックスが容易に優勝できたシーズンはなかったと言ってよい。
ラッセルにとって初めてとなる1957年のNBAファイナルではセントルイス・ホークスと対戦。4戦先勝で優勝を決めるシリーズで、第7戦は延長2回の末2点差でセルティックスが勝つという激戦だった。
翌1958年のファイナルでは、ラッセルが怪我のため第4戦以降に欠場したこともあり、セルティックスは優勝を逃した。そのさらに翌年の1959年から1966年にかけて、セルティックスはリーグを8年連続で制覇している。これは連覇の記録としてNBA史上最長で、それに次ぐ連続優勝は1990年代のシカゴ・ブルズや2000年以降のロサンゼルス・レイカーズの3連覇が最高である。