バルフ
???
緑のモスク
位置
座標: ⇒36°45′N, 66°54′E
歴史
{{{成立区分1}}}{{{成立日1}}}
{{{成立区分2}}}{{{成立日2}}}
旧名{{{旧名}}}
創設者{{{創設者}}}
行政
国アフガニスタン
州バルフ州
市
バルフ
???
地理
面積
市域
陸上
水面 km?
水面面積比率
市街地
都市圏
標高365 m
人口動態
人口(2006年現在)
市域人
人口密度
市街地
市街地人口密度
都市圏105,300人 人
都市圏人口密度
備考
その他
等時帯
夏時間
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市外局番{{{市外局番}}}
ナンバープレート{{{ナンバープレート}}}
ISO 3166-2{{{ISOコード}}}
公式ウェブサイト:
バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語 ??? Balkh )はアフガニスタンの都市。バルフ州に属する。かつては、バクトリア王国の都バクトラとしても繁栄した。古代より交易路の要所として発展したが、現在は小規模な都市となっている。人口は105,300人 (2006年の公式推計 ⇒[1])。
目次
1 地勢
2 歴史
3 観光
4 主な出身者
5 関連項目
6 外部リンク
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アフガニスタンに広がる山岳地帯の山麓近く、バルフ川の右岸に位置している。ウズベキスタンの国境に近く、約70キロほど北が国境地帯である。近隣の都市としては、約20キロ東のマザーリシャリーフが挙げられる。
歴史シルクロードとバクトラ(現・バルフ)。中央下あたりに位置する。
古代より交易路の拠点として繁栄しており、その繁栄はバビロンやニネヴェ、エクバタナにも比類したとされる。ゾロアスター教の信徒にとっては、始祖ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視された。アケメネス朝ペルシアの支配を経て、アレクサンドロスに征服された。前325年頃、アレクサンドロスが死去したという虚報を契機に、一部のギリシア人軍団が反乱を起こすと、彼らはこのバクトラを占領して一時抵抗をみせたが鎮圧された。アレクサンドロス帝国の分裂後は、セレウコス朝シリアの支配下におかれた。前256年頃、ギリシア人のディオドトスがセレウコス朝に対して反乱を起こし、この都市(当時はバクトラ)を中心としてバクトリア王国が独立を果たした。この地ではギリシア文化が維持され、後世にも影響を与えたとされる。バクトリア東部のアイ・ハヌム遺跡での出土品。ギリシア文化の強い影響がうかがえる。
ただし、バクトラの都がどこであったかは、確実な裏付けがあるわけではない。かつて根拠となっていたバラ・ヒッサール遺跡は、調査によってティムール帝国期の遺跡であったことが分かった。おそらくはこの地などを中心としてギリシア文化が保たれたと考えられるが、その後世への継承については、以前想定されていたより限定的であったとされる。(いわゆる後世の「ガンダーラ美術」も、近年はローマ帝国がインド洋にまで商業網を広げる中で、再びギリシア文化が北インドへ伝えられたとする見解が有力になっている。)
その後は、大月氏、ついでクシャーナ朝のもとで繁栄し、仏教の受容も進んでいった。イスラーム時代以前にはバルフ周辺はトハーリスターンと呼ばれており、バルフ自体も同地方の首都とされ仏教の一大中心地として繁栄した。特にナウバハール寺院が有名であった。後のアッバース朝期に活躍し、ハールーン・アッ=ラシードの宰相として活躍したヤフヤー・イブン=ハーリドらを出したバルマク家は、このバルフのナウバハール寺院の管長(バルマク)に起源を持つ一族であったと伝えられる。このバルフをはじめとするトハーリスターン周辺の支配をめぐって、6世紀にはエフタルとサーサーン朝と抗争が続いたが、最終的にはサーサーン朝の統治下におかれた。その間、この地に唐僧の玄奘も訪れたとされる。イスラーム教の成立と拡大にともない、サーサーン朝は圧迫されていった。最後の君主ヤズデギルド3世は、この辺りを拠点として一時抵抗を続けたとされる。
その後、654年頃にバスラ総督アブドゥッラー・イブン=アーミル麾下のアフナフ・イブン=カイス率いるアラブ軍がホラーサーン征服のためトハーリスターン地方周辺に侵攻した。このときバルフはアフナフと和平条約を結んでイスラーム側に帰順した。ムアーウィヤがウマイヤ朝の初代カリフとして即位すると、カイス・ブン・アル=ハイサム・アッスラミーがホラーサーン総督として任命されたが、この時期にはバードギース、ヘラート、バルフといったホラーサーン東部の主要都市の多くがイスラーム政権側に離叛しカイスは鎮定のためバルフをまず攻略しナウバハール寺院を破壊したと伝えられる。