バリ島 (Bali) は、東南アジアのインドネシアに属する島。首都ジャカルタのあるジャワ島のすぐ東側に位置する。 人口は約320万人である。
言語はバリ語であるが、放送などは公用語のインドネシア語であり、子どもたちは小学校入学前からこれを学ぶため、老人などを除き、インドネシア語会話に不自由がない。それどころか、バリ語は敬語表現が複雑かつ厳密なため、使い慣れないランクの敬語を使わなければならない相手とは、あえてバリ語を避けてインドネシア語を使うこともあるという。
宗教はバリ・ヒンドゥーが有名だが、イスラム教(回教)信者の増加が著しい。キリスト教徒もいる。バリ島のランドサット衛星写真
目次
1 歴史
1.1 テロリズム
2 地理
3 気候
3.1 農業
4 地方自治体
5 民俗、宗教
5.1 祭事、儀礼
5.2 生活
5.3 伝承
6 教育
6.1 大学
7 文化
8 観光
8.1 観光地
8.2 リゾート、ビーチ
8.3 遺跡
9 治安
10 交通
10.1 島外との交通
10.2 島内交通
11 バリ島の周辺
12 関連用語
13 関連書籍
14 関連人物
15 外部リンク
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ジャワ原人の故地であるジャワ島に隣接し、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心に文明が開けていたと推定されるが、4世紀に移動して来たヒンドゥー教に属する人々が来てから大きく発展した。
9世紀頃から独自の王朝を築いていたことが資料から窺えるが、常にジャワ島の政権の影響下にあり、1342年、マジャパヒト王国に侵攻された後はその支配下にあった。16世紀にマジャパヒト王国が、イスラム勢力により衰亡すると、ジャワ島から独立し、ゲルゲル王朝が成立し、東進するイスラム勢力に対抗した。17世紀になると、オランダ東インド会社を始めとしたヨーロッパ勢力の進出が見られたが、これと言った特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配下で、バリ人による自治を保った。
19世紀、帝国主義的風潮の下、オランダはバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下におき、最後まで残った1908年バリ島の名目的支配者であったクルンクン朝(ププタンにより滅ぶ)を滅ぼし、全土を植民地とした。オランダは、各地の王族を通した間接支配を行い、灌漑・道路等農業設備を整理しアヘンやコーヒーと言った商品作物の栽培を奨励する一方で、奴隷制の廃止、学校の設営、風俗改革(裸身の禁止)等ヨーロッパ的近代化政策も実施した。また、この当時、バリ島の風俗がヨーロッパに紹介され、それに魅せられたヨーロッパの芸術家が来島、現在の観光の目玉である音楽(ガムラン等)、舞踏(レゴン、ケチャ等)、絵画の様式が確立する。クルンクン県西部バンジャランカン郡に残る旧日本軍の防空壕
太平洋戦争時、バリ島は日本の占領下にあったが、戦傷者のための戦時病院を開設したくらいで、住民への弾圧などはなかったため、対日感情は現在に至るまで良い。終戦後、オランダの再支配に対して抵抗した。殊にゲリラ部隊を率いて壮烈な戦死を遂げたグスティ・ングラ・ライ(Gusti Ngurah Rai)中佐は、英雄としてその名を国際的な玄関口であるングラ・ライ空港(デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめている。スカルノらの活躍により、蘭領インドネシアは1949年オランダから独立し、1950年バリ島はインドネシア共和国に参加する。参加当初から、宗教問題が最大の問題であったが、インドネシア政府の繊細な配慮の下(観光による外貨獲得が最大の目的であった可能性は大であるが)、独自の文化を維持しつつ世界的観光地へと成長した。
欧米人、日本人と言った先進国の裕福な観光客が集まり、かつ、異教徒であるヒンドゥー教圏であることからイスラム過激派による国際テロリズムの格好の標的とされている。