バッシャール・アル=アサド
Bashar Al Asad
シリア・アラブ共和国第28代大統領
任期:2000年7月17日 ? 現職
副大統領:ファールーク・アル=シャルア
アティーヤ・アル=アッタール
出生:1965年9月11日
ディマシュク県
ダマスカス
政党:アラブ社会主義バアス党
配偶:アスマー・アル=アサド
ハーフェズ・アル=アサドと家族。後列左から二人目がバッシャール、中央が事故死した兄バースィル
バッシャール・アル=アサド(???? ????? Bashsh?r al-Asad, 1965年9月11日 - )は、シリアの政治家で、大統領(在任2000年 - )、バアス党地域指導部書記長。ハーフィズ・アル=アサド前大統領の次男。
目次
1 経歴
1.1 後継者へ
1.2 権力の掌握
1.3 腐敗との戦い
1.4 大統領就任
2 参考文献
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シリアの首都ダマスカス出身。元々本人には政治家になる意図は無く、兄でハーフィズ・アル=アサドの長男にあたるバースィル・アル=アサドが父の後継者とみなされていた。ダマスカス大学医学部を卒業後、1990年代初頭に眼科医を目指してロンドンに留学していたが、兄のバースィル少佐が交通事故で死亡したことからやむを得ず留学を中断、シリアに帰国して後継者となった。このことに関する2つの逸話として、父ハーフィズに電話で「バースィル兄さんが志した道を歩む」と後継者になる決意を述べた。あるいは、周囲の親しい人々には「別に大統領になりたいわけでは無い」とも語ったとされる。
しかし、軍人であった父や兄に対して、眼科医のバッシャールに国を率いるだけの能力があるのか疑問視された為、帰国後は、医務局付き大尉の肩書を持っていたので、シリア陸軍の軍務に付き、ホムス士官学校・機甲師団局に勤務し、さらに1994年よりダマスカスの軍事高等アカデミー参謀コースで学び、その終了後は機甲師団司令官に昇進、1995年1月には少佐に、1997年には参謀本部付き中佐に、1999年1月に同大佐に昇進した。
また、兄の権力基盤だった共和国防衛隊の実質的な指揮権を掌握。政治実績を積むために、レバノン問題担当大統領顧問として、同国の親シリア派政治家であるエミール・ラッフード大統領就任やサリーム・フッス首相選出を後押して、レバノン内政に介入した。このことが後の対レバノン関係に惨禍を残すことになる。
1999年には、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどのアラブ諸国を訪問。さらにフランスのジャック・シラク大統領とも会談し、シリアの次期後継者として周辺国にアピールした。
2000年、バッシャールは「古参と新たな血の融合」「腐敗との戦い」といった新たな運動を唱え、体制内部の腐敗一掃とあらゆる分野での改革を訴えた。それに呼応するように3月8日、汚職疑惑があったマフムード・ズウビー首相率いる内閣が総辞職し、新たに清廉で実直として評価が高かったムスタファー・ミールーアレッポ県知事がバアス党大会で首相に指名され、3月14日にミールー内閣が発足した。この内閣には、バッシャールが指名した23名の実務や行政手腕が買われた50歳以下の若手閣僚も含まれていた。 今までのシリアの内閣は、大統領が国防・外務・情報・経済担当大臣を選び、他の大臣は情報・治安機関が人選した人間を選んでいたが、今回は実質バッシャールが人選を行った。
腐敗との戦いの最初のターゲットになったのは、前首相のズウビーであった。2月には「首相在任中の行動規範が、党の価値観、道徳に反し、法を逸脱して国家の名誉、党の名声に被害をもたらした」としてバアス党地域指導部にて党を除名され、首相辞任後は公金横領容疑で起訴され、資産を凍結する懲罰措置が取られた。そして、逮捕日当日の5月21日、ズウビーは自宅で拳銃自殺を遂げた。 この事件についてはさまざまな説が飛び交い、数日前から、ズウビーの健康悪化や自殺未遂の噂が流れ、政権による暗殺との憶測も呼んだ。一説によると、ハーフィズ・アサドの妻の一族であるマフルーフ家の指示により、北朝鮮との天然ガス密売の取引に失敗したため、詰め腹を切らされたとの説もある。
ズウビー自殺を皮切りに、党や政府の高官が次々と腐敗の容疑で逮捕されていった。これは、体制内部の粛正と腐敗との戦いを進めるバッシャールに対して恐威の念を抱かせるという二重の意味があったとされる。
大統領就任モスクワを訪問したアサド大統領とアスマ夫人(2005年1月)
2000年6月10日に父ハーフェズが死去すると翌日陸軍大将に昇進、軍最高司令官に任命され、6月18日にはバアス党書記長に就任。7月10日に信任を問う国民投票を実施し、7月17日に後継大統領に就任した。
2001年にはイギリス生まれでスンナ派に属するシリア人女性、アスマー・アフラスと結婚した。アサド政権のもとで、シリアはアサド父子の出身母体であるアラウィー派が人口的には少数派であるにもかかわらず政権で優遇され、最大宗派のスンナ派を支配してきたため、この結婚をきっかけに両者の融和を求められた。
バッシャール・アル=アサド大統領は大きな波乱なく権力を継承したが、政治的経験がほとんど無いためあまり国政で主導権を握ることはせず、もっぱらハーフェズ時代以来の首脳が政務を行っているのが政権の実態である。生来の温厚な性格もあって、憲法で承認された絶大な大統領権力は、バッシャール時代になるとあまり行使されなくなった。