歴史的な領域としてのバスク国(バスク語:Euskal Herria)は、文化的、歴史的な地域。ピレネー山脈西部に位置し、フランスとスペインにまたがり、ビスケー湾に面する。バスク人とバスク語の歴史的な故国とおおむね一致する。
目次
1 地理
1.1 南バスク国
1.2 北バスク国
2 歴史
3 関連項目
4 外部リンク
//
バスクの伝統では、バスク国は7つの地域(Zazpiak Bat)からなる。南の4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Hegoalde(南部)を構成し、北の3つの地域はフランス内にあり、Iparralde(北部)を構成する。7つの地域は次のとおり。
南バスク国のうち3つの地域はスペインの県になっており、バスク自治州(Euskadi)に含まれる。
アラバ - 都はガステイス(スペイン語:ビトリア)で、バスク自治州の州都を兼ねる。
ビスカイア(スペイン語:ビスカヤ) - 都はビルボ(スペイン語:ビルバオ)
ギプスコア - 都はドノスティア(スペイン語:サン・セバスティアン)
南バスク国の東部の地域は別の自治州になっており、3つの県を合わせたより大きい。
ナファロア(スペイン語:ナバラ) - 都はイルーニャ(スペイン語:パンプローナ)
北バスク国はフランスのピレネー=アトランティック県の一部である。
低地ナファロア(バスク語:べへ・ナファロア、フランス語:バス・ナヴァール) - 都はドニバネ・ガラシ(フランス語:サン・ジャン・ピエ・ド・ポル)
ラプルディ(フランス語:ラブール) - 都はバイオナ(フランス語:バイヨンヌ)
スベロア(フランス語:スール) - 都はマウレ(フランス語:モレオン)
バスク国の領域には、後期旧石器時代から人間が住み続けてきた。ローマ帝国期にはいくつかの部族に分割されたが、民族的な大きな領域を構成していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。
ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
3世紀には、封建制が進行する中で、山脈の両側のバスク地域は ⇒バガウダエにからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、 ⇒ガスコーニュ公国の設立につながった。この公国はフランク王国の属国、あるいは ⇒アキテーヌ公国との連合国であった。
ガスコーニュ公国は、ムスリムの侵入者やアキテーヌの ⇒ウード公、フランクのカール・マルテルの間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。
南方ではパンプローナ王国(のちのナバラ王国)が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネーの両側においてバスク国の唯一の政治的な実体となった(スベロアは自治を保ったが、バイオナとラプルディ沿岸部はイングランドの手に落ちた)。王国は ⇒サンチョ3世(985年-1035年)のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク国のほとんど、ラ・リオハ、カスティーリャの北東に加えて、カスティーリャ王国とアラゴン王国(どちらも当時は地方の小国であった)に及んだ。サンチョは「大王」と呼ばれ、レオンやバスコニア(ガスコーニュの語源)の脆弱な地域も保護国にしようとした。
サンチョが死ぬと、その王国は4人の息子に分割された。パンプローナ、カスティーリャ、アラゴン、 ⇒ソブラルベと ⇒リバゴルサである。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。「ナバラ」という名前が付けられたのは、パンプローナとアラゴンが連合した間である。
1134年、 ⇒ガルシア・ラミレスがナバラ王位に就くと、カスティーリャとの戦争が始まった。ラ・リオハを明け渡すことで和平が結ばれたが、西部の3県はナバラ王国の手にとどまった。しかしカスティーリャは新たな侵攻を始め、3県はカスティーリャに帰属した。ただし、トレビニョを除いて3県には自治権( ⇒フエロ)が認められた。
1512年、フェルナンド2世の部隊が南バスクを占領した。ピレネー北のバス・ナヴァールは独立を保ったが、1620年にフランスに編入された。バス・ナヴァールは1589年にアンリ4世がフランス王について以来、フランスと連合していた。
ナバラと北バスクの県は特殊な形式の自治を保ち続けた。フランス革命による中央集権化が進むと、フランス側の県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。