ハーメルンの笛吹き男
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ハーメルン市マルクト教会のステンドグラスから模写された、現存する最古の笛吹き男の絵画(アウグスティン・フォン・メルペルク画、1592年)。

ハーメルンの笛吹き男(ハーメルンのふえふきおとこ)はグリム兄弟を含む複数の作者によって記録された民間伝承である。この伝承は、おおよそ1284年6月26日に生じたと推定される、ドイツの街ハーメルンの災厄について伝えている。
目次

1 伝承の概要

2 歴史的背景

3 民話としての成立

4 日本での受容

4.1 日本における派生作品


5 関連項目

6 外部リンク

7 参考文献

7.1 出典


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伝承の概要

1284年、ハーメルンに「鼠捕り」を名乗る色とりどりの衣装をまとった男がやって来て、報酬と引き換えに街を荒らしまわるネズミの駆除を持ち掛けた。ハーメルンの人々は男にネズミ退治の報酬を約束した。すると男はを取り、笛の音でネズミの群れを惹き付けると、ヴェーザー川におびき寄せ、ネズミを残さず溺れ死にさせた。ネズミ退治が成功したにも関わらず、ハーメルンの人々は約束を破り、笛吹き男への報酬を出し渋った。

怒った笛吹き男はハーメルンの街を後にしたが、6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び戻って来た。住民が教会にいる間に、笛吹き男は再び笛を吹き鳴らし、ハーメルンの子供達を街から連れ去った。130人の少年少女が笛吹き男の後に続き、洞窟の中に誘い入れられた。そして、洞窟は内側から封印され、笛吹き男も洞窟に入った子供達も二度と戻って来なかった。物語のバージョンによっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた2人の子供、あるいは盲目ろう者の2人の子供だけが残されたと伝えられている。

なお、ハーメルン市の新門にあるラテン語の碑文には、この笛吹き男の正体はマグス(悪魔)であったと刻まれている。


歴史的背景

この物語への最初の言及は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会に設置されていたステンドグラスに見られる。14世紀から17世紀にかけての幾つかの記録はステンドグラスについて述べているが、このステンドグラスは破壊されてしまったようである。残された記述に基づいて、ハンス・ドバーティンにより現在のステンドグラスが復元された。このステンドグラスは、色鮮やかな衣装を纏った笛吹き男と、白い着物姿の子供たちを特徴としている。

このステンドグラスは、ハーメルン市の悲劇的な史実を記念して制作されたと一般には考えられている。しかしながら、多くの研究が成された後も、笛吹き男の物語に隠された歴史的な出来事とは何であったかの、明確な説明は与えられなかった。16世紀後半になって、初めて物語にネズミの群れが追加されているが、それより以前の全ての記録では、ネズミの群れは登場しない。

多くの支持を受けている説は、以下の四つのカテゴリーに分類される。

子供達はある事故の被害を蒙り、ヴェーザー川で溺れ死んだか、土砂崩れによって生き埋めにされたとする説。

子供達は何らかの伝染病に罹患し、ハーメルン市の他の住民を感染から保護するために街から誘い出されたとする説。この説では、ペストに対する前時代の対応が示唆されている。他の特質として、子供達のダンスは、遺伝性の疾患であるハンチントン病への早期の言及に帰着される(しかしながら同病は遺伝病であり、それが集団発生することは考えられない)。別の可能性として、この出来事は、ヨーロッパの幾つかの村でペストによる苦難の期間以降に遍く記録された、舞踏病の集団発生、いわゆる共同体内での舞踏性躁病の発生の一例を連想させる。ヴェルステガンやブラウニングによる日付1376年は、この説と一致しているようである。これらの説では、笛吹き男は死神の象徴であると認識されている。

子供達はある巡礼行為か軍事行動、あるいは新しい少年十字軍運動の一環として街から去ったが、二度と両親の元へ戻らなかったとする説。これらの説では、名前のない笛吹き男は運動のリーダーか新兵徴募官であったと見なされている。

子供達は東ヨーロッパの植民地で、彼ら自身の村の創建者となるために、自ら望んで両親とハーメルン市を見捨て去ったとする説。この時代に創建された幾つかのヨーロッパの村と都市は、ハーメルンの子供達による開拓者としての努力の結果であると考えられる。この説でも笛吹き男は、運動のリーダーであったと見なされている。(→ドイツ植民)


子供達が1284年に街を去ったとする伝承は非常に古くから正確に記録されており、ペストによる説明は当てはまりそうにない。現代の学者達は、前述の内の植民説がもっとも可能性の高いものであると考えている。換言すれば、ハーメルンの笛吹き男は13世紀における東ヨーロッパ植民活動の徴募者であって、笛吹き男はハーメルンの若い世代の大部分を、ドイツ東方にある遠方の地域へと導き出したのである。

ハーメルンのデカン・リューデは、この出来事の目撃証言であるラテン語詩を含んだ合唱書を所蔵していると、およそ1384年頃に報告している。伝承によれば、この詩はリューデの祖母によって書かれた。この合唱書は17世紀後期以降は、失われたままであると考えられている。

この出来事のドイツ語による記述は、ハーメルンで発見された1602年?1603年頃の碑文に残されている。

Anno 1284 am dage Johannis et Pauli
war der 26. junii
Dorch einen piper mit allerlei farve bekledet
gewesen CXXX kinder verledet binnen Hamelen gebo[re]n
to calvarie bi den koppen verloren

この碑文は、概ね以下の日本語に訳される。

1284年、ヨハネとパウロの日
6月の26日
あらゆる色で着飾った笛吹き男に
130人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され
コッペンの近くの処刑場でいなくなった

コッペン( Koppen :ドイツ語で「丘」の意味)は、ハーメルンの市を囲む幾つかの丘の一つであるかのように思われる。それらの丘のどれがこの詩の作者によって意図されたものであるかは、不明確なままである。


民話としての成立

およそ1440年頃から、最古の文献が残されている。

ハーメルンの街を東西に貫くオスター通りの東門近くには、消失した子供達への追悼の念を込めて、歌ったり音楽を奏でることが禁止されている舞楽禁制通り(Bungelose、ブンゲローゼ)が現存する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki