ハバロフスク裁判
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ハバロフスク裁判(ハバロフスクさいばん)とは、第二次世界大戦後の1949年12月25日から12月30日にかけて、ソビエト連邦ハバロフスクの士官会館で、6日間行われた旧日本軍に対する裁判の通称である[1]
概要

共産党独裁の社会主義法制度に基づいて行われた裁判で、最後の関東軍総司令官である山田乙三を含む12人の日本人細菌戦戦犯を裁いた裁判である。被告人はいずれも有期刑の実刑判決を受け、シベリア抑留された[2][1]

冷戦が厳しくなる中、日本側には十分な情報が入らない状態で裁判が進み、日本では秘密裁判のように受けとめられることも多いが、公開裁判で、その衝撃的内容から毎回現地の傍聴人が殺到したという[3]。また、裁判について、当初はあくまでモスクワ放送プラウダタス通信(いずれもソ連の官製マスコミ)を発信源とする情報として、国際的な通信社から報じられていた。そのため、731部隊等の人体実験・細菌戦の情報を秘密裡に独占することを望む米国側からは、日本ではGHQ関係者を通して”本当に行われているのか”、”実際にそこに居るとされる細菌戦関係者が裁かれているのか”、”我々の確かめようもない報道”との批判的な発表も行われた[4]

今日この裁判の内容については国際的にはあまり知られていないとも言われる。これについて、当時のソ連側司法関係者には、裁判を東京裁判と異なりソ連だけで行い、他国を参加させなかったことが最大の失敗だったとする意見もあるという[5]

日本側では、弁護士との接見など無い状況で尋問によって作られた調書を証拠とし、裁判では「弁護人」はいるものの自白と調書を主に迅速に進められ、被告人には発言機会が十分に許されず、典型的なスターリン時代の「結果ありき」の裁判ではなかったのかとの批判がある[6][1]。また、被告人の供述調書は脅迫によるものではないかとして疑義が残る[7]、当時のソ連の国内法で裁いたもので国際法上の根拠が薄いとする主張もある[1]。実際には、裁判の模様を記録していたカメラマンが後のゴルバチョフ政権下の改革・開放のグラスノスチの時代に証言したところによれば、証拠を寄せて予審を行い、公開で行われた本審では裁判官の前で被告人が証人・検察官と対決するという形式であったという[3]。これは戦前の日本の刑事裁判とほぼ同様なスタイルである。当時のソ連側調査グループの通訳が語ったところによれば、被告人らは、予審で裏付け証拠のあるものは認めるが、証拠のないものは認めないという作戦をとったが、予審で認めたことを本審でひっくり返すようなことはほとんどなかったという[8]。最初の罪状認否で、梶塚隆二が一部罪状を否認したが、その他の者は罪状自体はほぼ認めている。

被告人らは有期刑のため、刑期中に亡くなった者を除けば、やがて釈放されるか、刑期未了の者も1956年の日ソ国交回復に伴って事実上釈放される形で日本に帰国した。とくにこれら帰国者の間から、取調にあたって拷問があったとか、裁判で罪なき罪を認めたといった声は聞かれない[9][10]

ロシア側は裁判の正当性を主張し、また、中国からは、細菌戦犯罪に対する史上初の国際裁判であったこと、当時日本が細菌兵器を開発し、戦時中に使用していた事実を曝いたことを評価する意見[11]もある。ロシア側は資料については、国益を損なう内容があるとして、一部のみで全資料公開していない[1][12]。2021年9月には「ハバロフスク裁判」に関する学術会議を開き、プーチン大統領が歴史の改竄を批判するメッセージを寄せ、これは歴史問題で日本を牽制するためだともいう[13]。2020年7月にはロシアで出版物やインターネットへの投稿などを対象に、ナチスとソ連を同列視することを禁じる法律も施行されている[12]
被告人、判決、服役

山田乙三関東軍司令官・大将)- 矯正労働収容所で25年間の監禁。1956年日ソ国交回復に伴って帰国。

梶塚隆二(関東軍軍医部長・軍医中将)- 矯正労働収容所で25年間の監禁。1956年の日ソ国交回復に伴って帰国。

高橋隆篤(関東軍獣医部長・獣医中将)- 矯正労働収容所で25年間の監禁。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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