ハイム・ワイツマン
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トルーマンとヴァイツマン(右)。1948年、ホワイトハウス

ハイム・アズリエル・ヴァイツマンまたはハイム・アズリエル・ワイツマン、カイム・アズリエル・ワイズマン(he: ???? ?????? ????? / en: Chaim Azriel Weizmann(Chajim -, Haim - とも), 1874年11月27日 - 1952年11月9日) は、イスラエルの政治家・化学者。シオニスト運動の指導者で、初代イスラエル大統領
目次

1 経歴

1.1 第一次世界大戦まで

1.2 シオニスト運動の指導者へ

1.3 イスラエル建国へ


2 外部リンク

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経歴


第一次世界大戦まで

1874年、ロシアの小さな村モトル(現 ベラルーシのモタリ)に生まれた。ドイツスイスで化学を学び、1899年、スイスのフリブルク大学の有機化学博士課程を卒業し、1901年-1903年ジュネーヴ大学で化学を教えた。スイス時代に未来の妻ヴェラ (Vera) に出会い、また、シオニズム運動に参加した。1903年、実践的シオニズムを主張した。

1904年イギリスに移住。シオニスト評議会の議長に就任する一方、マンチェスター大学で化学を教える。1907年パレスチナを訪れて移民の状況を見て、ユダヤ人国家建設には政治的解決と植民の両方が必要だと確信する。この考えは合成シオニズム (synthetic Zionism) と呼ばれた。

化学者としては、砂糖にバクテリアを作用させて発酵させ、合成ゴムを得ようと研究した。ゴムの合成には失敗したが、研究の副産物として、1910年ごろ、バクテリアの1種クロストリジウム・アセトブチリクム (Clostridium acetobutylicum) を使ってデンプンからアセトンを合成するバクテリア発酵法を開発した。


シオニスト運動の指導者へヴァイツマン(左。アラブの民族衣装を着ている)とファイサル1世。1918年。

1914年第一次世界大戦が始まると、コルダイト火薬の原料として大量のアセトンが必要になったが、当時主流の製法では大量の木材が必要で、戦争により安定供給ができなくなった。ヴァイツマンはイギリスに協力し、バクテリア発酵法の工業化に成功。彼の製法により年間3万トンのアセトンが供給された。このことで、イギリス政府内のウィンストン・チャーチルロイド・ジョージの知己を得た。

さらに1917年11月2日、外務大臣アーサー・バルフォアに協力してバルフォア宣言を出させ、パレスチナでのユダヤ国家建設をイギリスに約束させた。1918年にはイギリス政府の後援で、シオニスト委員会代表としてパレスチナに向かい、テルアヴィヴのユダヤ人入植地を視察した。

1919年パリ講和会議にて、アラブ民族運動の指導者だったイラクの王子(後に王)ファイサル1世との間でファイサル・ヴァイツマン合意に調印し、互いの民族国家建設のために協力することを約束した。これ以降、世界的なシオニスト運動の指導者となってゆく。

1921年、世界シオニスト機構 (WZO) 代表に就いた。アメリカ合衆国を訪れ、アルベルト・アインシュタインとともに、シオニズム運動のための資金集めのキャンペーンを展開した。1925年、アインシュタインやバルフォアとともに、エルサレムのスコプス (Scopus) 山にヘブライ大学を創設した。また、死海のリン酸塩工場、ナハライム (Naharayim) の水力発電所の建設を助成した。その後起こった世界恐慌に対して、1929年、ユダヤ機関 (Jewish Agency) を設立した。

1931年には1度WZO代表を退き研究生活に戻った。1934年、レホヴォト (Rehovot) にダニエル・シーフ研究所(Daniel Sieff Research Institute、のちのヴァイツマン科学研究所)を設立し、所長に就いた。しかし1935年にはWZO代表に復職し、1946年まで務めた。


イスラエル建国へ

第二次世界大戦では、イギリス軍需省の名誉顧問となり、合成ゴムとハイオクガソリンを研究した(天然ゴムの産地であるマレー植民地が日本に占領されたため)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki