ヌミディア(羅:Numidia)は、カルタゴや共和政ローマの時代にベルベル系の部族が住んでいたアフリカ北部の地域・王国。ヌミディアとは古代ローマによる呼称であり、現在のアルジェリア北東部周辺に当たる。ヌミディア王国は、東隣にカルタゴ、西隣にマウレタニア王国と接していた。王国の滅亡後にローマ帝国の属州となる。
「ヌミディア」とは「ヌミド」と呼ばれる半遊牧の先住民の小都市群の事であるらしい。
目次
1 ヌミディアの呼称について
2 ヌミディア史
2.1 第二次ポエニ戦争
2.2 マシニッサの統一王国以降
2.3 ローマによる支配
3 ヌミディア騎兵
4 おもなヌミディア王
5 関連項目
6 外部リンク
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ヌミディアの名は、歴史家ポリュビオスらに由来する。ポリュビオスは、ポエニ戦争で騎兵として活躍した半遊牧集団のことをギリシア語で「遊牧民」を意味する「ノマデス」(νομ?δε?)と呼んだ。後に、例えばカエサルやティトゥス・リウィウスはこの地域の住民をラテン語で「ヌミダエ」(Numidae)と記し、その国は「ヌミディア」(Numidia)と呼ばれた。しかし、「ヌミダエ」および「ヌミディア」はローマ側の呼称に過ぎなかったとされている。(詳細はヌミディア人の項を参照)
紀元前3世紀頃のこの地域は、二つの遊牧部族連合国家、東のマッシュリー族(Massyli)と西のムティギティ族(Mutigiti)あるいはマサエシュリー族(Massaesyli)に分かれていた。この当時はまだ一つの王国は存在していなかった。
第二次ポエニ戦争第二次ポエニ戦争時のヌミディア周辺(紀元前218年)
第二次ポエニ戦争(紀元前218年?201年)では、東の王であるガイア(あるいはガラ)はカルタゴと同盟を結んでハンニバルの遠征軍に騎兵を提供し、ローマ共和国と戦った。他方、西のシュファクスは、ローマと同盟を結んでいた。
ところが紀元前206年、東のガイアが没すると、西王国のシュファクスが東を併合した。ガラの息子であるマシニッサは、カルタゴ領のイベリア半島でローマの大スキピオと戦っていたが敗れ、本国を失ったので大スキピオの軍門に降った。これに対して、シュファクスはローマから離反してカルタゴと同盟を結んだ。
紀元前204年、大スキピオ率いるローマ軍がカルタゴ本国を攻めるために北アフリカに上陸して、カルタゴ・ヌミディア同盟軍を破り、ヌミディアを制圧した。シュファクスはローマの捕虜となり、マシニッサが統一ヌミディアの王として即位した。ザマの戦いでは、マシニッサ王はスキピオ麾下ローマ軍の支援軍として右翼の騎兵隊を指揮して、ハンニバルのカルタゴ軍を破ることに貢献した。なおこのとき、マシニッサが撃退したカルタゴ軍左翼もヌミディア騎兵であった。
後世のアッピアノスが伝えるところによれば、マシニッサが没した紀元前148年には、彼の領土は西隣はマウレタニア、東隣はカルタゴ、さらに東端はキュレナイカにまで達したという。すなわち、カルタゴを南側から包囲した形になったわけである。
紀元前112年からのユグルタ戦争の結果、西ヌミディアはマウレタニアの王ボックス1世( ⇒Bocchus I)の支配下になった。しかし、東ヌミディアおよびキュレナイカまで達する広大な版図は、ヌミディア人の王が支配した。
紀元前49年にカエサルとポンペイウスの内戦が勃発した。ファルサルスの戦いでカエサル軍に敗れた元老院派は北アフリカに逃れて、ヌミディア王ユバ1世と協力してカエサルに抗したがタプススの戦いで敗北。元老院派の総司令官メテルス・スキピオは戦死、小カトーはウティカで自殺した。