この項目では、ドイツの行政府の長について説明しています。ドイツ連邦共和国の首相職については「連邦首相 (ドイツ)」をご覧ください。
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左上:オットー・フォン・ビスマルクは、初代北ドイツ連邦連邦宰相、初代ドイツ国(ドイツ帝国)首相である。
右上:コンラート・アデナウアーは、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の初代連邦首相である。
左下:ヘルムート・コールは1990年のドイツ再統一の際に首相を務めていた。
右下:アンゲラ・メルケルはドイツ初の女性首相である。
ドイツの首相(ドイツのしゅしょう)では、ドイツにおける行政府の長について解説する。 本項では1871年のドイツ統一から現在に至るまでのドイツの首相について解説する。この間にドイツがたどった国家形態の名称と首相の呼称は以下の通り。 「ドイツ」の首相の呼称にはどれにも「-kanzler」という語が含まれている(共産主義政権の旧東ドイツを除く)。この Kanzler(カンツラー、英語: chancellor )というのは古フランス語の chancelier が語源で、本来は「宮廷や法廷の門衛、案内役、事務員、秘書官」などをさす語だった。神聖ローマ帝国初期のドイツでは、学識を有する聖職者が宮廷文書の管理などを通じて帝国行政に関与しており、司教はその長として「書記官長」(Kanzler)と呼ばれていた。 中世になると、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教の三司教は選帝侯を兼ねて世俗諸侯と肩を並べるほど強力になった。のちにこれが帝国の最高官職である、帝国内の各3王国(ドイツ、イタリアおよびブルグント)の大書記官長(Erzkanzler)に任じられるようになると、この三司教は、それぞれ、「ドイツ大書記官長」(Erzkanzler durch Germanien)、「イタリア大書記官長」(Erzkanzler durch Italien)、「ガリア=ブルグント大書記官長」(Erzkanzler durch Gallien und Burgund)と称するようになった。 こうした大書記官長の中には、事実上の宰相として皇帝の政務を補佐したり、事実上の摂政として幼少の皇帝に代わって国政を担当した者もいたが、1356年の金印勅書でマインツ大司教が皇帝選挙の主催者とされ、選帝侯の筆頭に位置づけられると、これ以後「Erzkanzler durch Germanien」は「ドイツ(神聖ローマ帝国)の宰相」を意味する語としてドイツ語圏に定着した。 近世になると、帝国内のプロイセン王国やオーストリア大公国の宰相にも Staatskanzler(領国宰相)という呼称が用いられるようになった。 1867年にプロイセン主導で北ドイツ連邦が成立すると、ビスマルクは自らその首相に就いて「Bundeskanzler(連邦宰相)」と称した。1871年に「ドイツ国(Deutsches Reich:帝政ドイツ)」が成立すると、今度は 「Reichskanzler(帝国宰相)」として以後19年間政界に君臨し、ドイツを列強の一つに押し上げた。 1918年、第一次世界大戦の敗北によって帝政が崩壊し、ドイツは共和政となった。しかし新国家の国号に提案された「Deutsche Republik(ドイツ共和国)」には各方面からの拒否が強く、結局、国号は引続き「Deutsches Reich(ドイツ国)」が用いられた[1]。このため「Reichskanzler」の呼称もそのまま共和政に引き継がれた。 日本では1918年から1933年までのドイツ国を「ヴァイマル共和政」と呼んでおり、日本の歴史教科書の類では共和政の「Reichskanzler」を「首相」と訳して帝政時代のものと区別している場合が多い。なお帝政ドイツ時代には帝国内閣が存在せず、帝国各省庁の長は、帝国宰相の下僚としてその指示に厳格に従う「国務長官(Staatssekretar)」であって、「大臣(Minister)」のように君主に対して宰相と同様に責任を負い、その業務について自立して任務に当たるものではなかった。つまり、帝政宰相は行政上の責任を単独で果たしていたのである。これに対し、ヴァイマル共和政以降の首相は議会に責任を負う合議制行政機関としての内閣の議長として位置づけられた。訳語の変化は、こうした役割の変化も表しているのである。 1934年8月1日、ヒンデンブルク大統領の死後発効する法律として「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」が制定された。この法律で大統領の地位は首相と統合された。8月19日にはこの措置の是非を問う民族投票
名称
ドイツ国 Deutsches Reich (1871年 - 1945年)
Reichskanzler(ドイツ国首相と訳されるが、日本では以下の政治体制ごとに以下の訳を当てていることが多い。)
ドイツ帝国 (1871年 - 1918年):帝国宰相
ヴァイマル共和政 (1918年 - 1934年):
首相
ナチス・ドイツ (1934年 - 1945年):総統 (Fuhrer und Reichskanzler)
ドイツ民主共和国 Deutsche Demokratische Republik (1949年 - 1990年)
Ministerprasident:大臣主席 (1949年 - 1968年、1990年)Vorsitzende des Ministerrates:閣僚評議会議長 (1968年 - 1989年)
ドイツ連邦共和国 Bundesrepublik Deutschland (1949年 - )
Bundeskanzler:連邦首相
呼称と変遷
語源と由来
ドイツ帝国初代帝国宰相
オットー・フォン・ビスマルク
ヴァイマル共和政ヴァイマル共和国初代首相
フィリップ・シャイデマン
ナチス・ドイツ詳細は「総統」を参照ドイツ国総統
アドルフ・ヒトラー
第二次世界大戦後、ドイツは米・英・仏・ソの4ヵ国による占領下におかれたが、冷戦の対立構造が固定化されていく中で共同占領は困難となり、1949年秋に米・英・仏占領区にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、ソ連占領区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国された。
ドイツ民主共和国ドイツ民主共和国初代首相
オットー・グローテヴォール
東ドイツは、旧来の呼称を使用せず、1949年の憲法では「総理大臣」(Ministerprasident)[2]としたが、社会主義国を宣言した1968年の憲法改正で閣僚評議会議長(Vorsitzende des Ministerrates)[3]に改められた。