トランシルヴァニア(Transylvania)は、ルーマニア中部・北西部の歴史的地名。また、11世紀から1867年まではこの地にあった国家の名称であった。
目次
1 概要
2 歴史
2.1 多民族の共生地域
2.2 古代の国家と定住
2.3 マジャル人のハンガリー王国
2.4 ドイツ人の移住
2.5 オスマン帝国とトランシルヴァニア侯国
2.6 オーストリアの支配
2.7 民族運動の行方
3 関連項目
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トランシルヴァニアは「森の彼方の国」という意味であり、12世紀のラテン語文献に「Terra Ultrasilvana」の形で初めて現われる。これはハンガリー人(マジャル人)がハンガリー南部の平原から西カルパティア山脈以遠の地を指して呼んだ語であった。ハンガリー語では、元来同じ意味を持つエルデーエルヴェ(Erd?elve)という名で呼ばれ、これがラテン語名の起源である。
中世以降のハンガリー語では、エルデーエルヴェから派生したエルデーイ (Erdely) と呼ばれ、ルーマニア語でもそれに由来するアルデアル (Ardeal) という名称をトランシルヴァニアと併用している。13世紀以来の入植の歴史を持つドイツ語では、初期の入植地の数に準じて、「七つの都市」を意味するジーベンビュルゲン (Siebenburgen) という名で呼んでいる。領域としてのトランシルヴァニアは、狭義の定義と広義の定義に分けられる。
中世にハンガリー王国の一地域として、また近世(16?17世紀)に独立侯国として国制上の領域をなした地域を狭義のトランシルヴァニア、1920年のトリアノン条約でルーマニアに割譲された旧ハンガリー領(ハンガリー大平原、バーナートの一部を含む)全体を指して用いられる広義のトランシルヴァニアが、現在は文脈で使い分けられている。
自然地誌的に見れば、それぞれ東カルパティア山脈、南カルパティア山脈、西カルパティア山脈と呼ばれるこれらの3山脈に囲まれた台形の地域は、南ロシアからドナウ平原を経てハンガリー大平原に連なるステップ上の地帯に対して、孤城の観を呈している。東カルパティア山脈および南カルパティア山脈には2,000メートルを超す山が多く、これに比し西カルパティア山脈の山々は一般に低いが、これらの山脈に抱かれたトランシルヴァニアはそれ自体1つの大きな盆地といってよい。
しかもその内部には高原、丘陵、渓谷地帯や中心部のトランシルヴァニア平原があって変化に富んだ景観が広がり、平野部はもちろん1,300メートルぐらいの高地にまで集落が散在している。肥沃な高地と牧草地、さらに豊かな鉱物資源(貴金属、岩塩など)はこの地域の経済の発展を促してきた。しかもこの孤城は山脈を横切る多くの渓谷によって東欧の諸地方と結ばれ、古くから東西貿易の重要路の1つと見なされてきた。
トランシルヴァニア社会の特色を生み出した主要な要因として、その民族構成が挙げられる。歴史的に見て主要な民族は、ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人であるが、過去にさかのぼってこれら住民の絶対数を算出することはほとんど不可能に近い。近代に入ると1784年から1787年にオーストリアのヨーゼフ2世が行った最初の人口調査以来、幾度か国勢調査が行われているが、その時々の支配民族の政治利害によって恣意的な調査が行われた。そのため、それの利用には細心の注意を払わなければならないが、1910年の調査では、総人口5,257,000人のうち、ルーマニア人53.8%、ハンガリー人28.6%、ドイツ人10.8%、1956年の調査では、総人口6,232,000人のうち、ルーマニア人65%、ハンガリー人25%、ドイツ人6%となっており、これらの数字から明らかなように、ルーマニアのトランシルヴァニア併合以後ルーマニア人の人口比の増大が目立っている。
このように諸民族が共存しながら領土問題が絡むために、従来トランシルヴァニアの歴史は民族的軋轢の舞台として描かれ、あるいはそれぞれの民族の立場から記述される傾向が強く、それが客観的なトランシルヴァニア地域史の研究を妨げてきた。事実トランシルヴァニアは、ドイツ人にとってはその植民地が西欧キリスト教文明を伝播し外敵からこれを防衛した橋頭堡であったし、ハンガリー人にとっては特にオスマン帝国支配の時期に民族文化の伝統を育み続けた温床であり、またルーマニア人にとってはダキア・ローマ時代以来の民族の揺籃の地であり、かつその民族運動の発祥地でもあった。しかし恵まれた自然の下での諸民族の共生が独自の地域文化を生み出し、また特に進歩的知識人や民衆レベルでの友好的な紐帯が結ばれた諸事実も見落としてはならない。紀元前82年時点のトランシルヴァニア ダキア人の領域(黒線)の西部を占めていた
歴史が確認しうるトランシルヴァニア最古の国家は、インド・ヨーロッパ語系のダキア人の国であり、その主邑は今もなお廃墟の残るサミルゼジェトゥサであった。トランシルヴァニアの鉱物資源に目をつけたローマ人は106年のトラヤヌス帝のときにこの地を征服し、以後アウレリアヌス帝がローマ軍の撤退を命じた271年まで、ここを属州ダキア州とした。その後のいわゆる民族移動期にはゴート人、フン人、ゲピード人、アヴァール人、スラブ人の諸族がこの地に移住し、9世紀には第一次ブルガリア帝国が支配していた。ダキア人とローマ軍撤退後もこの地に残ったローマ人との子孫である原ルーマニア人が、ほぼこのころまでに民族として形成されていったとされる。彼らはやがてヴラフ( ⇒Vlachs)と呼ばれるようになり、10世紀ごろには特にカルパティア山脈の高原地帯(ハツェグ、ファガラシュ、マラムレシュなど)にヴラフの法と称される慣習法に基づく共同体を営んでいた。