トマス・ヘンリー・ハクスリー
1860年代に撮られたハクスリーの写真
生年1825年5月4日
イギリス イーリング
没年1895年6月29日(満70歳没)
イギリス イーストボーン
研究分野生物学
主な受賞歴ウォラストン・メダル(1876年)
トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley、1825年5月4日 - 1895年6月29日)はイギリスの生物学者。ハックスリー、ハクスレーと表記されることもある。「ダーウィンのブルドッグ」の異名で知られ、チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護した。
リチャード・オーウェンとの論争においては、人間とゴリラの脳の解剖学的構造の類似を示した。
興味深いことに、ハクスリーはダーウィンのアイディアの多くに反対であった(たとえば漸進的な進化)。そして、自然選択よりも、唯物論的科学を弁護することに興味を示した。
科学啓蒙家としての才能があった。「不可知論 ( ⇒Agnosticism)」の語を作って自らの信仰を表現した。
詳細は不可知論を参照
彼は「生物発生説(続生説ともいう。生物の細胞は他の生物の細胞からのみ発生する説)」と「自然発生説(無生物から生物が発生するという説)」の概念を作ったと信じられている。
目次
1 経歴
1.1 前半生
1.2 ラトルスネーク号の航海
1.3 結婚と子
1.4 ダーウィンのブルドッグ
1.5 研究者として
2 教育への影響
3 関連項目
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ハクスリーは、イーリングの数学教師ジョージ・ハクスリーの8人の子の中で下から2番目の子として、西ロンドンのイーリングで生まれた。
17歳のとき、彼が奨学金を得ていたチャリングクロス病院で、通常の医学の研究を開始した。20歳でロンドン大学で彼の最初の医学士の試験に合格し、解剖学と生理学で首席を勝ち取った。1845年に、毛の内部のさやの中に今まで知られていなかった層の存在を証明する、彼の最初の科学論文を発表した。その層はそれ以来ハクスリー層として知られることになる。
その後ハクスリーは海軍に職を求めた。彼は、トレス海峡における測量の仕事のために出帆しようとしていたHMSラトルスネーク号の外科医のポストを得た。1846年12月3日にイギリスを発ったラトルスネークが南半球に到着するやいなや、ハクスリーは海の無脊椎動物の研究に従事した。彼はイギリスに彼の発見の詳細を送り始め、そして彼の論文 Medusae科の解剖学と類似について は1849年に Philosophycal Transactions において王立協会から出版された。
ハクスリーはMedusae、Hydroidおよびウミシバ族 (Sertularian) のポリープを同じグループにまとめた。これらは後に彼が "Hydrozoa" の名前を与えた綱(ヒドロ虫綱)を形成することになる。彼が発見した共通点は、綱のすべてのメンバーが中央の腔あるいは消化管を内包する2つの薄膜から構成されているということであった。 これは現在では刺胞動物門 (Cnidaria) と呼ばれるものの特徴である。 彼はこの特徴を、より高等な動物の胚の漿膜構造と粘膜構造に比較した。
ハクスリーの業績の価値は評価され、1850年にイギリスに戻るや否や、彼は王立協会のフェローに選ばれた。翌年、26歳の若さで国の勲章を受けたばかりか、評議会議員に選出された。しかし、生涯の友人だったジョセフ・ダルトン・フッカーとジョン・ティンダルとの友情は変わらなかった。彼がラトルスネークの航海の間にしていた観察に取り組めるよう、海軍省は彼を名目上の外科医助手として雇った。こうして彼は、種々の重要な学術論文を書くことができるようになった。特に、ヨハネス・ペーター・ミュラーがその動物界における位置づけを行おうとして断念した尾虫類(オタマボヤ類)の分類の問題を解決したホヤ類の論文と、有頭軟体動物の形態学についての論文が有名である。
ハクスリーは海軍を辞め、1854年7月に王立鉱山学校(現:インペリアル・カレッジ・ロンドン)の講師になり、翌年には英国地質調査所の博物学者になった。この時期に属する彼の最も重要な研究は、1858年に王立協会で行われた脊椎動物の頭骨の理論に関するCroonian 講義であった。この中で彼は、以前ゲーテとローレンツ・オーケンが支持した、頭骨と脊柱が相同器官であるというリチャード・オーウェンの見解を却下した。