テルモピュライの戦い
ジャック=ルイ・ダヴィッド『テルモピュライのレオニダス』
戦争:ペルシア戦争
年月日:紀元前480年8月
場所:ギリシアのテルモピュライ
結果:ギリシア軍の敗退
交戦勢力
ギリシア連合軍アケメネス朝ペルシア
指揮官
レオニダスクセルクセス1世
戦力
7,00060,000
損害
1,000以上20,000以上
ペルシア戦争
イオニア - マラトン - テルモピュライ - アルテミシオン - サラミス - プラタイア - ミュカレ - ビュザンティオン
テルモピュライの戦い(-たたかい、希語:Μ?χη των Θερμοπυλ?ν、英語:Battle of Thermopylae)は、ペルシア戦争における戦いの一つ。紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘である。「テルモピレーの戦い」とも呼ばれる。ヘロドトスの『歴史』(第7巻)に記述される。
海戦(アルテミシオンの海戦)ではギリシア艦隊がペルシア遠征軍に善戦したが、テルモピュライではペルシアの圧倒的な戦力の前にギリシア軍が敗退した。しかし、スパルタ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い止め、クセルクセスの兄弟を二人戦死させた。これは、スパルタ軍の勇猛さと地形をうまく利用したためと言われている。
目次
1 背景
2 両軍の戦力
2.1 ギリシア陸戦部隊
2.2 ペルシア陸戦部隊
3 戦いの経過
4 戦いの影響
5 2度目の戦い
6 関連項目
7 出典・脚注
8 参考文献
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ペルシアの侵略に対して対応が混乱していたギリシアの諸都市であったが、ペルシア遠征軍がトラキアへ侵入するに及んで、連合してこれを迎撃することを決した。
先にテンペ峡谷に出兵したギリシア軍は、マケドニア王国のアレクサンドロス1世にペルシア遠征軍の巨大さを説かれてイストモスに撤退していたが、再び会議を開き、ペルシア艦隊をアルテミシオン沖で、クセルクセス本隊をテルモピュライで迎え撃つことを決議した[1]。テルモピュライ・アルテミシオンの防衛線は、アッティカ以北を防衛するための戦略的に極めて重要な意味を持つものだったが、スパルタはカルネイア祭によって全軍を出仕できず、レオニダス王率いる先遣隊300のみを派遣した。他のアルカディアの諸都市もオリンピア祭のために少数の部隊のみを動員し、祭りの終了とともに本隊を派遣することとした[2]。
テルマ(現テッサロニキ)を出立したペルシア本隊は、テルモピュライ近郊のトラキスに陣を張った。その兵力規模のあまりの大きさにギリシア軍は恐慌に陥り、スパルタを除くペロポネソスの兵は、イストモスを防衛すべきとして撤退を主張したが、これにポキスとロクリスが強硬に反対した[3]。このためレオニダスはテルモピュライでの決戦を決意し、ギリシア諸都市に使者を送って支援を要請した。
クセルクセスはギリシアの動きを察知していたが、兵力の差からギリシア部隊がまともに戦闘をおこなうとは信じられず、ギリシア部隊が撤退するのを4日間待った。しかし、5日目になってもギリシア軍が撤退する気配を見せなかったため、クセルクセスはメディア軍に攻撃を命じた[4]。
史料によって人数が異なるが、ここにはヘロドトスとシケリアのディオドロスの述べる数字をまとめる。
内訳ヘロドトスディオドロス
スパルタ重装歩兵300300
スパルタ装甲歩兵???1,000
テゲア兵5003,000
(王指揮下のギリシア兵)
マンティネイア兵500
オルコメノス兵120
アルカディア各都市の兵1,000
コリントス兵400
プレイウス兵200
ミュケナイ兵80
テスピアイ兵700
テバイ兵400400
ロクリス・オプンティア兵不明 (地区の全兵力)1,000
マリス兵???1,000
ポキス兵1,0001,000
合計5,2007,700
ヘロドトスはスパルタ軍として参戦したのは300人隊のみであるとするのに対し、ディオドロスはスパルタ軍には300人隊に加えて1,000人のスパルタ装甲歩兵が参戦したとしており、ディオドロスが1,000人と伝えているロクリス・オプンティア(テルモピュライの真東)の全兵力を加えたギリシア側の総数は7,000人前後と推定される。ディオドロスのみが記載するマリス(テルモピュライの真西)は直前にペルシア軍本体に占領されており、実際には参戦していないと思われる。またこの戦いの直後にロクリスはペルシア軍に占領され、ポキスはペルシア側の同盟国となった。