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チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日)は、イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家。ポーツマスの郊外に生まれた。
年少時より働きに出され、新聞記者を勤めるかたわらに、作品集『ボズのスケッチ集( ⇒Sketches by Boz)』で登場。主に下層階級を主人公とし、弱者の視点で社会を諷刺した作品群を発表した。その登場人物は広く親しまれており、イギリスの国民作家とされる。作品は『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『二都物語』『大いなる遺産』など。
目次
1 生涯
1.1 困苦の少年時代
1.2 新聞記者から作家に
1.3 国民作家として
1.4 後期の作品と晩年
2 作風
3 批評史
4 主要作品
5 関連項目
6 外部リンク
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海軍の会計吏ジョン・ディケンズとエリザベスの長男として、1812年2月7日にハンプシャーのポーツマス郊外のランドポートに生まれた。2歳のときにロンドンに、5歳のときにケント州(現在は独立行政区メドウェイ)の港町チャタムに移る。チャタムでは6年間を過ごし、ディケンズの心の故郷となった。少年期は病弱であり、フィールディング、デフォー、セルバンテスなどを濫読した。靴墨工場のディケンズ
ディケンズの家は中流階級の家庭であったが、父親ジョンは金銭感覚に乏しい人物であり、母親エリザベスも同様の傾向が見られた。そのため家は貧しく、ディケンズが学校教育を受けたのは、2度の転校による4年のみであった。1822年の暮れに一家はロンドンに移っていたが、濫費によって1824年に生家が破産。ディケンズ自身が12歳で独居し、親戚の経営していたウォレン靴墨工場へ働きに出されることになり、さらに借金の不払いのため、父親がマーシャルシー債務者監獄に収監された。家族も獄で共に生活を認められていたが、ディケンズのみは一人靴墨工場で働かされ、しかもこの工場での仕打ちはひどく、彼の精神に深い傷を残した。数ヵ月後に父親の出獄が認められ、ディケンズはウェリントン・ハウス・アカデミーへ行くことが認められたが、このとき母親に強く反対され、このことも強く心に残った。父親はのちに、『デイヴィッド・コパフィールド』の登場人物の一人であるミコーバー氏のモデルとなったとされる。
1827年からエリス・アンド・ブラックモア法律事務所に事務員として勤めたが、のちジャーナリストになることを決心し、速記術の習得に取り掛かった。これを修了すると事務所を辞め、法廷の速記記者となった。なおディケンズは芝居好きであったが、このころ俳優になろうとしたこともあった。20歳前後から諸雑誌から仕事の声が掛かるようになり、1834年に「モーニング・クロニクル」紙の報道記者となり、ジャーナリストとしての活動が本格化する。
定職の片手間に「ボズ(Boz)」という筆名で書き始めた投稿エッセイが1833年、初めて「マンスリー・マガジン」誌に掲載され感激、その後も継続して書き続ける。なお、この時期の筆名の「ボズ」とは、ディケンズの弟オーガスタスに付けられたあだ名に由来するとされる。こうしたエッセイは後にまとめられ、1836年、第一作『ボズのスケッチ集』として発表された。優れた批評眼が注目を浴びた。
同年、編集者の娘であるキャサリン・ホガースと結婚した。二人は10人の子に恵まれたが、性格の不一致のため結婚生活はうまくいかなかった。なお、ディケンズはキャサリン・ホガースよりもその妹のキャサリン・メアリを愛していたが、まだ幼かったこともあり、結局その姉と結婚したが、メアリはディケンズの結婚後もディケンズ夫妻の住まいに同居しており、この翌年急死した時にはディケンズにしばらく執筆活動を中断させるほどの打撃を与えている。
続いて発表した『ピクウィック・ペーパーズ』がサム・ウェラーの登場後に大人気となり、第一流の小説家として文才を認められた。さらに雑誌「ベントリーズ・メセラニー」の編集長を務め、同誌に初めて筋書きのある長編小説『オリバー・ツイスト』を発表、小説家としてのディケンズの人気はその後、終生衰えることがなかった。