チャールズ・アンドリュー・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby, 1892年3月8日-1972年10月25日)は、ドイツ生まれのアメリカ陸軍の軍人で小ヒトラーと呼ばれた反共主義者。最終階級は少将。ダグラス・マッカーサー将軍の情報参謀で、日本降伏後はGHQ参謀第2部(G2)部長として戦後日本に影響を与えた人物である。
目次
1 生涯
1.1 第二次世界大戦終結までの経歴
1.2 GHQでの活動
1.3 晩年
2 人物
3 著作
4 参考文献等
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ウィロビーは1892年3月8日にドイツハイデルベルクにてドイツ人の父(T.von Tscheppe-Weidenbach)と、アメリカ人でメリーランド州ボルチモア出身の母エマ・ウィロビー(Emma Willoughby)の間に生まれる。初め名前はドイツ語読みで「アドルフ・カール」といい、幼少はドイツ人として過ごす。地元ハイデルベルク大学卒業後にアメリカ人に帰化、母方の姓を称すようになる。
1910年にアメリカ陸軍に一兵士として入隊、叩き上げで昇進を重ね、1941年に大佐だったウィロビーはダグラス・マッカーサーの情報参謀として赴任、バターン死の行進ではマッカーサーと共に脱出している。 1942年6月20日には連合国軍准将に昇進している。
情報を重視するマッカーサーによって連合軍翻訳通信班(ATIS)(捕虜の尋問や命令文章の翻訳を担当)、連合軍諜報局(AIB)(諜報・謀略担当)が設置されるとウィロビーは元締めとして辣腕をふるった。特に自身がハーフだった事もあり日系二世や現地民を駆使した諜報活動は日本軍の動きを悉く察知した。
1945年4月12日にはアメリカ陸軍より正式に少将に昇進、1945年9月2日の戦艦「ミズーリ」での日本降伏文書調印式にはマッカーサーの幕僚として参加している。
GHQでは参謀第2部(G2)部長として諜報・保安・検閲(特にプレスコード)を管轄した。労働組合活動を奨励し日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将とチャールズ・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一らも使って反共工作を進めた。
極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、この裁判をよく思っていなかったウィロビーの釈放要求(ただし、児玉誉士夫と笹川良一の釈放については慎重だったという)が通り、22名の容疑者に対する二次・三次の裁判は行われなかった。これにはアメリカの方針が180°変わり、ソ連や中華人民共和国といった共産主義国家台頭に対して日本を防波堤に使おうと考え、たとえA級戦犯といえども反共に使えそうな人物は使おうと考えた事と、一次裁判で時間がかかりすぎてイギリスが裁判続行に消極的になった事も影響している。判決後ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている。
社団法人日米文化振興会(現・日米平和・文化交流協会)を興した笠井重治が、“有力な情報提供者”として親交があった事で知られる(袖井林二郎『マッカーサ?の二千日』)。
1948年には極東委員会でソ連のテレビヤンコ中将は日本海海戦の意趣返しとして戦艦「三笠」の解体・廃棄を主張したが、ウィロビーは日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだと反論して阻止、結果「三笠」の廃棄は免れた。後にチェスター・W・ニミッツ海軍元帥が復興運動を行った関係で日本人にはこちらの方が知られているが、ウィロビーもまた「三笠」にとっては恩人といえる。
GHQでの活動の他情報の専門家としてCIA設立に関与したのち1951年に退役、スペインに渡ると独裁者フランシスコ・フランコ将軍の非公式のアドバイザーになる。